できごと

タスマンのタスマニア・ニュージーランド到達

Tasman reaches Tasmania and New Zealand
AD1642年11月24日
重要度 3
MaorisWiradjuriKokathaMarduPintupiオーストラリア先住民(狩猟採集)WatjarriArrernteWarlpiriNyanganyatjaraMirningBidjaraKalaamayaKamilaroiNyangumardaWawulaWarumunguWiranguNgatatjaraNgaanyatjarraIningaiMandjindjaタスマニアの狩猟採集民WangkangurruWangkathaaKalaako/MalpaLuritjaYankuntjatjaraNakakoPitjantjatjaraGugu-BadhunBanggarlaAlyawarreWudjariArabanaWongaibonKaytejDharawalaAntakarinjaWakayaBarundjiAD1642年11月24日タスマニア(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1642年11月24日の版図を描いています(41勢力)。

概要

オランダ東インド会社が南の大陸を探しに出した。タスマニアに名をつけ、ニュージーランドでマオリに4人殺されて上陸せず、オーストラリア本体を見ないまま一周して帰った。「利益がない」と会社は言った。

場所

タスマニア位置は特定されていない(誤差 ±150km)
-42.00°N 146.60°E · オーストラリア・タスマニア州

関わった人(1)

アベル・タスマンAD1603年–AD1659年10月10日 · 船長

本文

古代ギリシアの学者たちは、北半球の陸地と釣り合いをとるために、地球の南にも大きな陸地があるはずだと考えた。この「未知の南の大陸」は、16世紀のヨーロッパの世界地図にも、南極のあたりから大きく張り出した陸地として描かれ続けた。17世紀、1602年に生まれたオランダ東インド会社は、アジアの香料貿易を握っていた(オランダ東インド会社の設立)。会社は、その南の大陸に、金や香料や新しい取引の相手があるのではないかと期待した。会社の船は、ジャワのバタヴィア(いまのジャカルタ)へ向かう途中、風に流されてオーストラリアの西の岸にたびたび行き当たっていたが、その陸地がどこまで続くのかは分からなかった。

1642年、バタヴィアの総督アントニオ・ファン・ディーメンは、南の海の探検を命じた。隊長に選ばれたのは、会社の船乗りとして経験を積んだ39歳のアベル・タスマンである。航路を設計したのは、熟練の航海士フランス・フィスヒャーだった。8月14日、ヘームスケルク号とゼーハーン号の2隻、110人ほどがバタヴィアを出た。一行はまずインド洋を西へ渡ってモーリシャスに寄り、そこから南へ下がって、強い西風に乗って東へ進んだ。これまでのどの船よりも南を通る航路だった。

アベル・タスマン
アベル・タスマンWikimedia Commons Jacob Gerritsz. Cuyp · Public domain

11月24日、一行は東の水平線に高い山々を見た。いまのタスマニアの西岸である。タスマンはこの地を、総督の名をとって「アントニオ・ファン・ディーメンの地」と名づけた。12月初め、東岸の入江に小舟を出すと、上陸した者たちは、木の幹に1.5メートルほどの間隔で刻まれた足がかりを見つけ、ここには巨人が住んでいるのではないかと報告した。煙は見えたが、住民の姿は見なかった。波が高く小舟を岸に着けられなかったため、大工が泳いで岸に渡り、会社の領有を示す旗を立てた。タスマニアには、1万年近く前に海面が上がって大陸と切り離されて以来、独自の暮らしを続けてきた人々がいた(タスマニアの孤立)。

さらに東へ進んだ一行は、12月13日、また大きく高い陸地を見た。ニュージーランド南島の西岸である。タスマンはこれを、南アメリカの南端近くのスターテン島とつながる南の大陸の一部ではないかと考え、「スターテン・ラント」と名づけた。北へ岸をたどり、12月18日、南島の北端の広い湾に錨を下ろした。

1628年の世界地図。新たに発見されたNew Holland(新オランダ、オーストラリアの西海岸)はメガラニカの一部と思われていた。
1628年の世界地図。新たに発見されたNew Holland(新オランダ、オーストラリアの西海岸)はメガラニカの一部と思われていた。Wikimedia Commons Public domain

その夜、カヌーに乗った人々が近づいてきて、貝の笛のような音を吹き鳴らした。この地に13世紀ごろから暮らしてきたマオリの人々である(アオテアロアへの到達)。オランダ人はトランペットを吹いて応えた。マオリの側にとって、それは挑戦に応じる合図と受け取られた可能性がある。翌19日、2隻の間を行き来していた小舟に、カヌーが勢いよくぶつかり、乗っていた船乗りのうち4人が殺された。タスマンはこの湾を「殺人者の湾」と名づけ、上陸しないまま立ち去った。湾はいまゴールデン湾と呼ばれている。

一行は北島の西岸を北へたどったが、ここでも上陸はできなかった。1643年1月、トンガの島々に着き、ここでは住民と穏やかに品物を交換して、水と食料を得た。続いてフィジーの島々のそばを通り、ニューギニアの北を回って、6月15日、10か月ぶりにバタヴィアに戻った。一行は、オーストラリア大陸の南を通り過ぎ、その周りをぐるりと一周しながら、大陸そのものを一度も目にしなかったことになる。

貿易風
貿易風Wikimedia Commons KVDP · Public domain

会社の評価は厳しかった。新しい陸地は見つけたが、上陸して調べることもせず、住民と取引もせず、金も香料も持ち帰らなかったからである。1644年、タスマンは再び送り出され、オーストラリアの北の岸をたどったが、ここでも利益になるものは見つからなかった。会社はこの南の陸地を「ニューホラント」と呼んだが、それ以上の探検には金を出さなくなった。

タスマンが見たニュージーランドに次のヨーロッパ人がやって来たのは、127年後の1769年、イギリスのクックの船だった(クックの太平洋航海)。クックはタスマンの残した海図を手に、ニュージーランドの周りを一周して、それが二つの島であり、南の大陸の一部ではないことを確かめた。ファン・ディーメンの地は19世紀に、その最初の発見者の名をとってタスマニアと改められた。オーストラリアとニュージーランドの間の海も、タスマン海と呼ばれている。

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