人物

ロバート・ピアリー

Robert Peary
AD1856年5月6日 – AD1920年2月20日(享年63)
アメリカ合衆国重要度 3

概要

海軍の技師。グリーンランドに8回。足の指を8本凍傷で失った。イヌイットの隕石を持ち帰って博物館に売った。イヌイットの子供が二人。1909年、北極点。クックと争った。議会が「到達」と認めた。1988年、ナショナル・ジオグラフィックが「届かなかったかもしれない」。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

ピアリーの北極点AD1909年4月6日 · 主張した

本文

ロバート・エドウィン・ピアリーは、アメリカ海軍の技術将校で、1909年に人類で初めて北極点に到達したと主張した探検家である。この主張はアメリカ議会に認められ、彼は国民的英雄になった。だが、本当に北極点に立ったのかどうかは、100年以上たったいまも決着がついていない。そして彼の名声の陰には、黒人の助手マシュー・ヘンソンと、彼を支えたイヌイットの人々の働きがあった。

1900年頃のロバート・ピアリー
1900年頃のロバート・ピアリーWikimedia Commons Nadar · Public domain

1856年5月6日、ペンシルヴェニア州の小さな町クレッソンに生まれた。父は彼が3歳になる前に死に、母は一人息子を連れて故郷のメイン州へ戻った。メイン州のボウドン大学で土木工学を学び、1881年に海軍の土木技術部隊に入った。1880年代には、大西洋と太平洋を結ぶ運河の候補地だった中米ニカラグアの測量に加わっている(運河はのちにパナマで開かれる。パナマ運河の開通)。

北極への関心は若いころからのものだった。1886年、休暇を取って初めてグリーンランドへ渡り、内陸の氷床の上を百数十キロ進んだ。翌年、ワシントンの洋服店で働いていたアフリカ系アメリカ人の青年マシュー・ヘンソンを従者として雇った。ヘンソンはその後20年あまり、ピアリーのすべての北極遠征に同行し、イヌイットの言葉を覚え、犬ぞりの扱いと橇の修理では隊の誰よりも腕が立つ人になった。

1909年、ロバート・ピアリーの自撮り写真
1909年、ロバート・ピアリーの自撮り写真Wikimedia Commons Robert Peary · Public domain

1891年から92年の遠征では、ピアリーは船上で足の骨を折りながらも、翌年の春にグリーンランド北部の氷床を北東へ横断し、北東岸のフィヨルドに達した。グリーンランドが北で途切れる島であることを示す有力な手がかりになった。1888年に結婚した妻ジョセフィンもこの遠征に同行し、1893年の次の遠征ではグリーンランドで娘マリーを産んだ。北極圏で生まれた白人の子として「雪の赤ん坊」と呼ばれ、新聞をにぎわせた。

ピアリーのやり方は、それまでの北極探検とは違っていた。フランクリン隊の遭難のような大部隊でヨーロッパ式の装備を持ち込むのではなく、グリーンランド北西部のイヌイットの人々を雇い、彼らの毛皮の服、犬ぞり、雪の家を取り入れた。何人もの支援の組が先を進んで食料を置き、少しずつ引き返していく方式で、最後の少人数を極点まで送り届ける計画を立てた。イヌイットの協力がなければ、彼の遠征は一つも成り立たなかった。

1910年、ピアリーの助手マシュー・ヘンソン
1910年、ピアリーの助手マシュー・ヘンソンWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

一方で、彼のイヌイットに対する扱いは、現代では厳しく批判されている。1890年代、彼はイヌイットが道具の鉄を得るのに使っていたケープ・ヨークの隕石を3つ船で運び出し、ニューヨークのアメリカ自然史博物館に4万ドルで売った。最大のものは30トンを超え、いまも博物館に展示されている。1897年には6人のイヌイットをニューヨークへ連れて行ったが、まもなく4人が結核などで死んだ。少年ミニクの父の遺骨は、博物館の標本として保管されていたことが後に分かり、一人残されたミニクは苦難の生涯を送った。遺骨がグリーンランドに返されたのは1993年のことである。また、ピアリーはイヌイットの女性アレカシナとのあいだに二人の息子をもうけたが、父として名のることはなかった。

1898年から1902年にかけての遠征では、1899年の冬に両足の指をひどく凍らせ、8本を切り落とすことになった。彼は壁に「道を見つけるか、さもなくば道を作る」と書きつけたと伝えられる。1905年から06年には、特別に造らせた船ルーズヴェルト号で北上し、北緯87度6分まで達したと発表した。

私服姿のピアリー
私服姿のピアリーWikimedia Commons Rockwood · Public domain

最後の遠征は1908年に始まった。カナダのエルズミア島の北端で冬を越し、1909年3月、24人の隊員と130頭あまりの犬で北極海の氷の上へ踏み出した。支援の組を順に帰し、北緯87度47分付近で船長のボブ・バートレットを引き返させると、残ったのはピアリー、ヘンソン、そして4人のイヌイット、ウータ、エギングワ、シーグロ、ウーカだった。4月6日、ピアリーは北極点に着いたと日記に書いた(ピアリーの北極点)。

だが、バートレットと別れてからの記録には疑問が多い。航海の位置を確かめる観測ができるのはピアリーだけで、帰り道の一日の進み方は、それまでの倍近い速さになっている。しかも帰国の途中で、元の隊員の医師フレデリック・クックが、自分は1908年4月に北極点に到達していたと発表した。ピアリーはクックを嘘つきと激しく攻撃し、二人の争いは新聞を二分した。クックはほかの登山記録のごまかしも暴かれて信用を失ったが、ピアリーの記録も精密に検証されたわけではなかった。それでも1911年、議会はピアリーの功を認め、彼を少将の位で退役させた。

イヌイットの生存技術を学んだ初期の北極探検家の一人、ピアリー
イヌイットの生存技術を学んだ初期の北極探検家の一人、ピアリーWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1920年2月20日、ピアリーはワシントンで悪性貧血のため死んだ。63歳だった。アーリントン国立墓地に葬られ、墓には大きな地球儀の形の記念碑が立てられた。

ヘンソンの功績は、長く顧みられなかった。彼は帰国後、ニューヨークの税関の職員として働き、名誉を受けたのは晩年になってからである。1955年に死んだヘンソンの遺骸は、1988年、アーリントンのピアリーの墓の隣に移された。この少し前、ピアリーの息子カーリと、同じ1906年ごろにヘンソンがイヌイットの女性とのあいだにもうけた息子アナウカクが、アメリカを訪れて父たちの親族に会っている。

1898〜1902年の遠征でピアリーが使った、エルズミア島の廃棄されたフォート・コンガー
1898〜1902年の遠征でピアリーが使った、エルズミア島の廃棄されたフォート・コンガーWikimedia Commons Adolphus Greely, Carlheim-Gyllenskiöld · Public domain

1988年、ナショナル・ジオグラフィック協会の依頼でピアリーの日記を調べたイギリスの極地探検家ウォーリー・ハーバートは、彼の観測記録には誤りがあり、極点の手前で数十キロから100キロあまり届かなかった可能性が高いと結論した。翌年、同じ協会の依頼を受けた別の調査団は、写真の影の長さなどからピアリーは極点の近くまで達していたと反論した。2005年には、イギリスの探検家トム・アヴェリーが同じような犬ぞりと装備で、ピアリーより短い日数で極点に達し、ピアリーの速さもありえないものではなかったと示した。ただし、それは届いたことの証明にはならない。北極点に初めて誰がたどり着いたのか、確かな答えはいまも無い。南極点への競争(アムンセンの南極点)が、ピアリーの発表を受けて一気に加速したことだけは確かである。

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