フェニキア人のアフリカ周航(伝承)
概要
ネコ2世がフェニキア人を紅海から送り、3年で地中海に戻ったとヘロドトスは書く。「彼らは太陽が右手にあったと言った。私は信じない」。南半球で太陽は北に見える。信じなかった一文が、本当だった証拠になった。
場所
-34.36°N 18.47°E · 南アフリカ
関わった人(1)
ネコ2世?–BC595年 · 命じた本文
紀元前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスは、『歴史』の第4巻で、世界の大陸の形について論じている(ヘロドトス『歴史』)。当時のギリシア人は、アフリカを「リビア」と呼んでいた。その南の端がどうなっているのか、海に囲まれているのか、どこまでも陸が続くのか、誰も確かなことを知らなかった。ヘロドトスはそこで、ある航海の話を書き留めた。
彼によれば、リビアが、アジアと接するところを除いて海に囲まれていることを最初に示したのは、エジプトの王ネコ2世だった。ネコは紀元前610年ごろから595年ごろまでエジプトを治めた王で、ナイル川と紅海を結ぶ運河を掘らせたが、途中でやめた。その工事で12万人が死に、神託が、この運河は異国人のために掘られている、と告げたからだという。運河はのちにペルシアのダレイオス1世が完成させた。

運河をあきらめたネコは、フェニキア人の船乗りたちを船に乗せて送り出し、ヘラクレスの柱、つまりジブラルタル海峡を通って地中海に入り、エジプトへ帰ってくるよう命じた。フェニキア人は紅海から南の海へ出た。秋になると、リビアのどこにいても上陸して麦の種を蒔き、実るのを待った。収穫すると、また船を出した。こうして2年が過ぎ、3年目にヘラクレスの柱を回ってエジプトに帰り着いた、とヘロドトスは書く。
そして彼は、こう付け加えた。彼らは、私には信じられないが、ほかの人は信じるかもしれないことを言った。リビアを回っているとき、太陽が右手にあった、と。
地中海に住む人々にとって、昼の太陽はいつも南の空にあるものだった。だが南回帰線より南へ行けば、昼の太陽は北の空に見える。アフリカの南の端を西へ回り込むとき、船乗りの右手は北にあたる。太陽が右手にあったという話は、彼らが本当に南半球まで行った者でなければ知りえない光景だった。ヘロドトスが信じられないと書いた一文が、かえってこの航海が本当に行われたことの、いちばん強い証拠だと考えられるようになったのである。作り話なら、わざわざ聞き手が疑うような細部は入れない。
それでも、航海が本当にあったかどうかは決着していない。距離は2万キロを優に超える。帆と櫂で進む当時の船が、喜望峰の荒れた海や、アフリカの西岸を北へ上るときの逆風と海流を越えられたのか、疑う研究者は少なくない。なぜネコがこの航海を命じたのかも、運河に代わる交易の道を探ったとも、金や象牙を求めたとも言われるが、分からない。フェニキア人は地中海で最も優れた船乗りで、西の果てまで交易の拠点を築いていた(カルタゴの建設)。その腕を見込んだのは確かだろう。

ヘロドトスは同じ箇所で、もう一つの話も伝えている。ペルシア王クセルクセスの時代、罪を犯したサタスペスという貴族が、罰の代わりにリビアを回る航海を命じられた。彼はヘラクレスの柱から西へ出て南へ下ったが、何か月も進んだのち、船がそれ以上進まないと言って引き返し、処刑された。紀元前5世紀ごろには、カルタゴのハンノが大船団を率いてジブラルタルからアフリカの西岸を南へ下り、火を噴く高い山や、毛深い人々を見たという記録を残している。だがハンノも、アフリカを一周はしなかった。
その後二千年あまり、アフリカを海で回った者の記録は無い。15世紀、ポルトガル人は少しずつアフリカの西岸を南へ下り(ボハドル岬の突破)、1488年にバルトロメウ・ディアスがついに南の端を回った(喜望峰の回航)。1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドに達する。フェニキア人とは逆の向き、西から東への航海だった。

21世紀に入って、古代のフェニキアの船を復元し、実際にアフリカを一周してみせた人々がいる。2008年から2010年にかけて、その船は2年あまりをかけて周航を終えた。古代の船でも不可能ではない、ということは示されたが、ネコの船が本当に回ったかどうかを示すものではない。残っているのは、ヘロドトスが疑いながら書き留めた、太陽が右手にあったという一言だけである。