ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路
概要
アフリカを回ってインドに着いた。地中海を通らない交易路が開き、富の流れが変わる。
場所
38.72°N -9.14°E · ポルトガル
関わった人(2)
イブン・マージドAD1432年頃–AD1500年頃 · 水先案内をしたとされるヴァスコ・ダ・ガマAD1460年代–AD1524年 · 当人本文
15世紀のヨーロッパで、胡椒やシナモン、クローブといったアジアの香辛料は高値で売れた。だがその道筋は、インド洋を渡ったあと、紅海やペルシア湾を通ってエジプトやシリアに運ばれ、そこからヴェネツィアなどの商人の手でヨーロッパに入る。途中でイスラーム世界の商人と国々、そしてヴェネツィアが利を取り、値は何倍にも膨らんだ。大西洋の端にある小国ポルトガルは、この流れの外にいた。
ポルトガルは、エンリケ航海王子(エンリケ航海王子)の時代から、アフリカの西岸を少しずつ南へ探ってきた。1434年にはボハドル岬を越え(ボハドル岬の突破)、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカの南端を回った(喜望峰の回航)。インドへの道は、あと一歩のところまで来ていた。
1497年7月、ヴァスコ・ダ・ガマは4隻の船を率いてリスボンを出た。ヴェルデ岬諸島から先は、アフリカの沿岸に沿わず、南大西洋を大きく弧を描いて進んだ。逆風と海流を避けるためで、3か月ほど陸地を見ない航海が続いた。11月に喜望峰を回り、アフリカの東岸を北へ進んだ。モザンビークやモンバサでは、土地の支配者やムスリムの商人と衝突しかけた。
東アフリカの沿岸は、インド洋交易の世界の一部だった。アラブ、ペルシア、インドの商人の船が季節風に乗って行き来し、港町にはその富が集まっていた。ダ・ガマは、モンバサと対立していたマリンディの王から歓迎され、インドまで導く水先案内人を得た。この案内人を、アラブの著名な航海者イブン・マージドだとする話が広く知られているが、確かな証拠はなく、グジャラートのムスリムだったとする記録もある(マリンディの水先案内)。一行は季節風に乗ってアラビア海を23日ほどで渡り、1498年5月、インド南西岸のカリカットの近くに着いた。

カリカットの王(ザモリン)との交渉はうまくいかなかった(カリカット到着)。ダ・ガマが王に差し出した品は、布や帽子、珊瑚、洗面器、蜂蜜などで、宮廷の者たちに笑われたと、同行者の記録は書いている。インドの商人が扱う品に比べ、売るべき商品もほとんど持っていなかった。ポルトガル人は、町のヒンドゥー教の寺院をキリスト教の教会だと思い込んで祈ったともいう。港を握るムスリムの商人たちは、新しい競争相手を警戒した。
8月、ダ・ガマはカリカットを離れたが、帰りの航海は季節風に逆らう形になり、アラビア海を渡るのに3か月以上かかった。壊血病が広がり、多くの船員が死んだ。人手が足りなくなって1隻を焼き捨てた。1499年の夏、生き残った船がリスボンに戻った。出発時の人数は150人から170人ほど、帰り着いたのはその3分の1ほどだったと考えられているが、正確な数は記録によって違う。それでも、持ち帰った香辛料は航海の費用を大きく上回る値で売れた。

この航海の意味は、地中海を通らずにヨーロッパとアジアを海で直接つないだことにある。イスラーム世界の商人とヴェネツィアが握ってきた中継の利を、迂回して手に入れる道が開いた。ポルトガル王マヌエル1世は「エチオピア、アラビア、ペルシア、インドの征服、航海、通商の主」を名乗った。
ポルトガルの方針は、すぐに力ずくのものに変わった。1500年には13隻の艦隊が送られ、その途中でブラジルに着いている(カブラルのブラジル到達)。カリカットで商館を襲われた艦隊は、町を砲撃した。1502年、ダ・ガマは20隻ほどの艦隊を率いて再びインドへ向かい、メッカ帰りの巡礼者を乗せた船を襲って焼くなど、暴力で港々を従わせた。ポルトガルは交易に加わるのではなく、海上の要所を押さえ、通行許可証を持たない船を攻撃して交易を支配しようとした。1510年にはゴア、1511年にはマラッカを奪った。

ただ、インド洋の交易そのものがすぐに奪われたわけではない。ポルトガルが押さえたのは海の一部の要所で、アジアの商人たちの交易はその後も続いた。紅海を通る香辛料の道も、16世紀の半ばには勢いを取り戻している。ダ・ガマは1524年、インドの副王として三たびインドに渡り、その年の暮れにコーチンで死んだ。ポルトガルの詩人カモンイスは、のちにこの航海を国民的な叙事詩『ウズ・ルジアダス』に歌っている。