できごと

ドードーの絶滅

Dodo
AD1662年
重要度 4
ポルトガル帝国ネーデルラント連邦共和国オロモマダガスカルルバ王国ルンダ王国コンゴ王国Rozwiメリナ王国(拡大期)ポルトガル領東アフリカAD1662年モーリシャス
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1662年の版図を描いています(10勢力)。

概要

モーリシャス島には捕食者がいなかった。だから、この鳩の仲間は飛ぶ必要がなく、地面に巣を作り、人を恐れなかった。1598年にオランダ人が上陸し、100年経たずに姿を消した。人が食べた数より、持ち込まれた豚と鼠と猿が卵を食べた影響が大きい。最後の確実な目撃は1662年。標本はほとんど残らず、オックスフォードの一体も1755年に大半が焼却された。「絶滅」という現象を、人が初めて自分の目で確かめた例になった。

場所

モーリシャス
-20.20°N 57.50°E · モーリシャス

本文

インド洋に浮かぶモーリシャスは、マダガスカルの東およそ900キロにある火山の島である。人がやって来るまで、この島には獣の捕食者が一匹もいなかった。いた哺乳類は、海を渡ってきたオオコウモリくらいである。

この島に、遠い昔、鳩の仲間が飛んで渡ってきた。捕食者のいない島で、鳥には何が起きるのか。空を飛ぶには大量のエネルギーが要る。逃げる必要がなければ、飛ばないほうが得になる。長い時間をかけて翼は小さくなり、体は大きくなり、巣は地面に作るようになった。そして、恐れることを知らなくなった。恐れる相手がいなかったからである。ニュージーランドのモアやマダガスカルの巨鳥エピオルニス、ガラパゴスの動物たちにも、同じことが起きている。島の生き物の、人を恐れない性質である。

ドードーの復元図
ドードーの復元図Wikimedia Commons Frederick William Frohawk (16 July 1861 - 10 December 1946), an English zoological artist · Public domain

こうして生まれたのがドードーだった。高さは1メートル近く、重さは10キロから十数キロほど。大きな鉤形のくちばしと小さな翼を持ち、尾には巻いた羽が房になっていた。遺伝子を調べると、いま生きている鳥で最も近いのは、東南アジアの島々に住み、空を飛べるミノバトだと分かっている。ドードーは、巨大になった飛べない鳩だったのである。

1598年、オランダの提督ヤコブ・ファン・ネックの艦隊がモーリシャスに立ち寄った。それより前にポルトガル人も来ていたが、住み着いてはいなかった。オランダの船乗りたちはこの鳥を「気味の悪い鳥」と呼んだ。いくつもの記録に、肉が固く脂っぽく、いくら煮ても柔らかくならなかったと書かれている。胸の肉は食べられた、という記録もある。「ドードー」という名の由来には、怠け者を意味するオランダ語、愚か者を意味するポルトガル語、鳴き声からなど、いくつもの説がある。

オックスフォードドードーの頭。現存するドードーの唯一の剥製標本の一部分。
オックスフォードドードーの頭。現存するドードーの唯一の剥製標本の一部分。Wikimedia Commons gnomonic · CC BY 2.0

ドードーは、人が食べ尽くしたのではなかった。飛べず、逃げず、大きいのだから、船乗りが捕まえるのはたやすく、実際にたくさん捕った。だが、島に住み着いたオランダ人は、多いときでも数十人から数百人ほどにすぎない。決定的だったのは、人が連れて来たものたちである。船から降りた豚は森に放されて野生になり、地面の巣の卵や雛を食べた。船に紛れ込んでいたネズミも卵を食べた。ジャワから持ち込まれたカニクイザルも卵を食べた。犬や猫もいた。そして森が切り開かれた。オランダは東インドとの航路の中継地としてこの島を使っていた(オランダ東インド会社の設立)。

ドードーは1年に卵を1個しか産まなかったと推定されている。捕食者のいない島では、たくさん産む必要がなかったからだ。その卵が食べられれば、数はあっという間に減る。

ドードーの生活史を示すダイヤグラム
ドードーの生活史を示すダイヤグラムWikimedia Commons D. Angst, A. Chinsamy, L. Steel & J. P. Hume · CC BY 4.0

最後の確かな目撃は1662年とされる。船が難破して島に流れ着いたオランダ人フォルカート・エヴェルツが、沖の小島で数羽を見て捕まえたと記している。1688年や1693年の記録を最後とする説もあり、記録の間隔から計算した推定では、実際に絶えたのは1690年ごろとされる。人がこの島に来てから、100年もたっていなかった。

そして、ドードーは忘れられた。見た者がいなくなり、標本も無く、書き残された話だけが残った。18世紀の博物学者の多くは、ドードーを伝説の生き物か、船乗りの作り話だと考えた。

ドードの卵と巣レプリカ。ドードーは1回に1個の卵を産んだ。
ドードの卵と巣レプリカ。ドードーは1回に1個の卵を産んだ。Wikimedia Commons Frode Inge Helland · CC BY 2.5

標本の運命も、その忘れられ方を物語っている。完全な形で残っている標本は一つも無い。オックスフォードのアシュモリアン博物館には、収集家トラデスカントの集めた品に由来する剥製が一体あった。生きたままロンドンへ運ばれ、見世物にされた鳥のものだとも言われる。1755年、博物館は傷んだ標本を処分し、ドードーの剥製も焼かれた。館長の命令で燃やされかけたものを職員が慌てて頭と足だけ救い出した、という話が伝わるが、当時の記録には傷んだ標本を取り除いたとあるだけで、なぜ頭と足が残ったのかは分かっていない。この頭と足が、柔らかい組織の残る唯一のドードーである。2002年、その頭から遺伝子が取り出され、ミノバトとの近い関係が確かめられた。

ほかに残っているのは骨だけである。1865年、島の学校の教師ジョージ・クラークが、マール・オ・ソンジュという沼地から大量の骨を掘り出した。世界の博物館に並ぶドードーの骨格の多くはここから来ており、何羽もの骨を組み合わせて組み立てたものが多い。

オックスフォード大学博物館のドードーの標本展示
オックスフォード大学博物館のドードーの標本展示Wikimedia Commons BazzaDaRambler · CC BY 2.0

私たちがよく知る、丸々と太ったドードーの姿は、17世紀のヨーロッパの絵から来ている。中でも影響が大きかったのが、1626年ごろのルーラント・サーフェリーの絵である。だがこうした絵は、ヨーロッパに運ばれて合わない餌で太った鳥や、剥製を見て描かれた可能性が高い。骨格から考えると、島で生きていたドードーは、もっと引き締まって脚が長く、背を伸ばして立っていたとされる。

18世紀まで、生き物の種が滅びるということ自体が、ほとんど認められていなかった。神が造った種が消えるはずはない、と多くの博物学者は考えていた。化石の生き物も、まだ人が行っていない土地のどこかに生きているのだろう、とされた。1796年、フランスの博物学者ジョルジュ・キュヴィエが、マンモスやマストドンの化石は現在のどの象とも違う、滅びた種のものだと示し、絶滅はようやく事実として受け入れられていく。

ドードーの最も近い現生の近縁種、ニコバルバト
ドードーの最も近い現生の近縁種、ニコバルバトWikimedia Commons cuatrok77 · CC BY 2.0

ドードーはそこで特別な意味を持つようになった。人が手を下して滅ぼし、その始まりから終わりまでが文書で追える、最初の例の一つだったからである。人による絶滅はそれ以前にも数多くあった。アメリカ大陸の大型動物の絶滅やオーストラリアの大型動物、ニュージーランドのモアの絶滅がそうだ。だが、発見され、書き記され、そして消えたことが記録で確かめられる例として、ドードーは際立っている。

1865年、オックスフォードの数学者チャールズ・ドジソンは、ルイス・キャロルの名で『不思議の国のアリス』を出し、そこにドードーを登場させた。彼は大学の博物館でドードーの頭や絵を見ていた。吃音のあったドジソンが自分の名を「ド、ド、ドジソン」と言うことがあり、ドードーは彼自身の姿を映したものだ、という説はよく知られている。ジョン・テニエルの挿絵は、サーフェリーの絵をもとにしている。この本によって、ドードーは絶滅の象徴として世界中に知られるようになった。英語には「ドードーのように死んでいる」、つまり完全に廃れた、という言い回しまで生まれた。

いまモーリシャスの国章にはドードーが描かれ、島では生き残った在来の生き物を守る取り組みが続いている。モーリシャスチョウゲンボウは1974年、野生の数がわずか4羽まで減ったが、人の手での繁殖と外来の動物の駆除によって数百羽に戻った。絶滅の淵から引き返した数少ない例である。ドードーが実を食べて種を運んでいたとされる木は、ドードーが消えたせいで芽を出さなくなったという説が1977年に唱えられて広まったが、その後の研究では疑問が多く出されている。

2020年代には、近い鳩の細胞の遺伝子を書き換えてドードーをよみがえらせる、と掲げる企業も現れた。それが本当にできるのか、してよいのか、そして、よみがえらせられるなら滅ぼしてもかまわないのか。リョコウバトの絶滅のように、人がその後も同じことを繰り返してきたことを思えば、ドードーの話はまだ終わっていない。

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