ニューギニア高地の農耕
概要
世界で独立に農耕が始まった数少ない場所のひとつ。タロイモとバナナを育てる排水路の跡が残る。
場所
-5.50°N 143.50°E · パプアニューギニア
本文
ニューギニア島の中央には、標高4000メートルを超える山脈が東西に走る。その間に、標高1500メートル前後の広い谷がいくつも開けている。赤道に近いが、この高さなら暑すぎず、雨も十分に降る。外の世界から隔てられたこの高地で、人々は自分たちの力で農耕を始めた。
その証拠が、パプアニューギニアのワギ谷にあるクックの湿地から見つかっている。ここでは、およそ1万年前には人が湿地の縁で植物を利用していた跡があり、7000年ほど前には土を盛り上げて作物を植えた跡が、さらに4000年ほど前には湿地の水を抜くための溝が掘られていたことが分かっている。年代の読み方には議論もあるが、西アジアで麦の農耕が始まったのと大きく変わらない時期に、ここでも独自に植物の栽培が始まったと考えられている。クックの遺跡は2008年に世界遺産に登録された。

育てられたのは、タロイモ、ヤムイモ、バナナ、サトウキビなどである。バナナもサトウキビも、ニューギニアの周辺で栽培化されたと考えられている。どれも種をまくのではなく、株分けや挿し木で増やす作物だった。
人々は、湿地の水を溝で抜き、土を盛り上げた畝に作物を植えた。湿地の土は肥えているが、水が多すぎると根が腐る。溝を掘って水の高さを調えることで、湿地を畑に変えたのである。クックの湿地では、時代ごとに形の違う溝が何層にも重なって見つかっており、何千年にもわたって排水と放棄が繰り返されたことが分かる。高地の畑では、今も同じように溝で区切られた畝が使われている。

ここには、麦や米のような穀物が無かった。穀物は乾かせば何年も蓄えられ、税として集めることもできる。イモやバナナは長くはもたない。大量の余剰を倉に蓄えて、王や役人や兵士を養う、という西アジアや中国のような道筋を、高地の社会はたどらなかった。代わりに、豚を飼い、豚や貝殻の宝物を贈り合う大きな交換の儀礼を通じて、人々の間の関係と地位を作っていった。村をまとめるのは、生まれつきの王ではなく、交換をうまく取り仕切って人望を集めた「ビッグマン」と呼ばれる人物だった。
高地は、言葉の数でも際立っている。ニューギニア島全体では千近い言語が話されているとされ、谷ごと、時には村ごとに言葉が違う。険しい山に隔てられ、それぞれの谷が自給できたことが、小さな社会を数多く並び立たせたと考えられている。

高地の人々の暮らしを大きく変えたのは、海の向こうから来た作物だった。南アメリカ原産のサツマイモが、ヨーロッパ人の航海によって東南アジアを経て、数百年前に高地に届いた。寒さに強く、痩せた土地でもよく育つサツマイモは、より高い斜面での耕作を可能にし、豚の餌にもなった。人口はこのあと大きく増えたとみられる。ただし、届いた時期や広がり方には議論がある。
ニューギニアの海岸や島々には、3500年ほど前から、東南アジアから来たオーストロネシア語族の人々が土器や家畜を携えて現れた(ラピタ土器の広がり)。豚や鶏、犬はこの流れの中でニューギニアに入ったと考えられているが、豚が高地に入った時期は分かっていない。一方、ニューギニアとオーストラリアは、氷期には陸続きのサフルという一つの大陸で、人が住みついたのは5万年近く前にさかのぼる(サフルへの渡海)。高地の農耕は、その長い歴史の途中で、内側から生まれたものだった。
外の世界がこの高地の人々を知ったのは、驚くほど遅い。山の内側は人の住まない険しい土地だと思われていたが、1930年代、金を探して奥地に入ったオーストラリア人たちが、谷いっぱいに広がる畑と、合わせて百万に及ぶとみられる人々の暮らしを目にした。
ジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』で、この高地を、農耕が独立に始まりながら国家や文字に至らなかった例として取り上げた(物語「『銃・病原菌・鉄』で読む歴史」)。栽培できる植物と飼える動物の種類が限られていたことが、その違いを生んだという議論である。農耕が独立に始まった場所は、世界で7か所から10か所ほどとされる。その一つであるニューギニアの高地は、農耕の始まりが、どこでも同じ行き先に向かうわけではないことを示している。