できごと

ピアリーの北極点

Peary claims the North Pole
AD1909年4月6日
重要度 4
大英帝国ロシア帝国グリーンランドドイツ帝国スウェーデン=ノルウェーオーストリア=ハンガリー帝国フランスグレートブリテン及びアイルランド連合王国イタリアルーマニアアイスランドブルガリアデンマークセルビアボスニア・ヘルツェゴビナAD1909年4月6日北極点
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1909年4月6日の版図を描いています(15勢力)。

概要

8度目。犬橇でエルズミア島から。「星条旗を立てた」。ヘンソンと4人のイヌイットと。帰ると、クックが「私が1年前に」と言っていた。議会が認めた。彼の速度と記録には、いまも疑いがある。本当に着いたかは分からない。着いたと認められた、最初。

場所

北極点
89.90°N 0.00°E · 北極海

関わった人(2)

ロバート・ピアリーAD1856年5月6日–AD1920年2月20日 · 主張したマシュー・ヘンソンAD1866年8月8日–AD1955年3月9日 · 共に

本文

アメリカ海軍の土木技師だったロバート・ピアリーは、1886年に初めてグリーンランドの氷原を歩いて以来、北極点に最初に立つことを生涯の目標にした。彼はグリーンランドの北西に住むイヌイットの人々に毛皮の服を作らせ、犬ぞりの扱いを学び、彼らを隊の中心に据えた。1891年からの遠征でグリーンランドの北部を横断し、1898年からの4年にわたる遠征では、凍傷で足の指を8本失った。それでもあきらめず、1906年には北緯87度6分まで達したと発表した。

ピアリーの遠征には、いつもマシュー・ヘンソン(マシュー・ヘンソン)がいた。メリーランドの小作の家に生まれたアフリカ系アメリカ人で、少年のころから船で働き、1887年にピアリーの従者として雇われてから20年以上、すべての遠征に加わった。イヌイットの言葉を話し、そりを作り直し、犬を操るのは、ピアリーよりヘンソンのほうが上手だったと言われる。

1900年頃のロバート・ピアリー
1900年頃のロバート・ピアリーWikimedia Commons Nadar · Public domain

1908年7月、ピアリーは砕氷のために造らせたルーズヴェルト号でニューヨークを出た。8度目の北極への遠征で、52歳になっていた。船はカナダ北端のエルズミア島のケープ・シェリダンで冬を越し、1909年2月の末、隊はさらに西のケープ・コロンビアから海の氷の上へ出た。24人の男、19台のそり、133頭の犬。支援の隊が先に道を切り開いて食料を運び、一隊ずつ引き返していく方式だった。

4月1日、最後の支援隊を率いた船長バートレットが、北緯87度47分あたりで引き返した。北極点まで、まだ250キロほどある。残ったのは、ピアリー、ヘンソン、そして4人のイヌイット、ウータ、エギングワ、シーグルー、ウークェアだった。ピアリーによれば、彼らはそこから5日で北極点に達した。4月6日、ピアリーは太陽の高さを測り、ここが北極点だと告げた。星条旗が氷の上に立てられた。一行は30時間ほどそこにとどまり、帰り道は16日ほどでケープ・コロンビアに戻った。ヘンソンは、帰り道のピアリーはほとんど口をきかなくなった、と後に語っている。

1909年、ロバート・ピアリーの自撮り写真
1909年、ロバート・ピアリーの自撮り写真Wikimedia Commons Robert Peary · Public domain

1909年9月、帰りの途中、カナダのラブラドールの無線局からピアリーが送った電報、北極点に星条旗を打ち立てた、という知らせが世界に流れた。だが、その数日前、別のアメリカ人フレデリック・クックが、自分は1908年4月21日に北極点に着いたと発表していた。クックはかつてピアリーの遠征の医師を務めた人で、二人の主張は新聞を巻き込んだ大論争になった。

クックの主張は、まもなく崩れた。彼が以前に発表したアラスカのマッキンリー山の初登頂は、同行者の証言で偽りと分かり、北極点の記録を調べたコペンハーゲン大学も、証拠が足りないと判断した。クックに同行したイヌイットは、陸地が見えなくなるほど遠くへは行かなかったと語ったという。1909年11月、ナショナル・ジオグラフィック協会の委員会はピアリーの記録を認め、1911年、議会はピアリーの北極の探検をたたえ、彼を海軍少将として退役させた。

1910年、ピアリーの助手マシュー・ヘンソン
1910年、ピアリーの助手マシュー・ヘンソンWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

だが、ピアリーにも疑いは残った。バートレットが引き返してからの日々、一行は一日に40キロ以上、それまでの倍近い速さで進んだことになる。氷の割れ目や氷の山脈を越えながら、そんな速さが出せたのか。帰りはさらに速い。位置を確かめる観測は、航法の訓練を受けた者が誰もいなくなってから、ピアリーが一人で行った。経度の観測は記録されておらず、日誌の4月6日の前後には空白があった。1988年、イギリスの探検家ウォーリー・ハーバートは、ナショナル・ジオグラフィック協会の依頼で記録を調べ、ピアリーは北極点の数十キロ手前までしか行っていなかっただろうと結論した。翌年、別の団体は写真の影の長さなどから、ほぼ北極点に達していたと発表した。決着はついていない。

誰もが認める形で北極点に立った最初の人々は、もっとあとに現れる。1926年、ロアール・アムンセンらの飛行船ノルゲ号が北極点の上空を飛び、1948年にはソ連の調査隊が飛行機で北極点の氷の上に降りた。1958年には原子力潜水艦(原子力潜水艦ノーチラス)が氷の下をくぐって北極点を通過し、1968年にはアメリカのプレステッドが雪上車で、1969年にはハーバート自身が犬ぞりで、北極点に到達したことを確かめられている。

私服姿のピアリー
私服姿のピアリーWikimedia Commons Rockwood · Public domain

ピアリーの栄光の陰には、ほかにも見過ごされてきた人々がいた。1897年、ピアリーは6人のイヌイットをニューヨークに連れ帰ったが、4人は結核で死に、少年ミニクの父の骨は博物館に標本として置かれた。父の遺骨がグリーンランドに返されたのは1993年のことである。ピアリーとヘンソンは、それぞれグリーンランドにイヌイットの女性との間の息子を残していた。ヘンソンが白人の隊員と同じように讃えられるようになったのは晩年で、1988年、彼の遺骨はアーリントン国立墓地のピアリーの墓の隣に移された。

北極点に最初に立ったのが誰なのかは、いまも分からない。ピアリーが着いたと認められた最初の人であることだけは確かである。

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