概要
1722年4月5日、南の大陸を探していたオランダのロッゲフェーンの船団は、太平洋の真ん中に孤立した島を見つけた。その日が復活祭(イースター)の日曜日だったので、「イースター島」と名づける。上陸した一行は、巨大な石の像が立ち並んでいるのを見て、道具も木材も無いこの島でどうやって立てたのかと驚いた。ヨーロッパ人がラパ・ヌイを訪れた最初の記録である。それから百五十年のあいだに、像は倒され、奴隷狩りと天然痘で島の人々は百人あまりにまで減った。
場所
-27.11°N -109.35°E · チリ領
本文
ヤーコプ・ロッゲフェーンは、オランダ西インド会社の後押しで、南の海にあると信じられていた未知の大陸を探しに出た。1721年、三隻の船でオランダを発ち、マゼラン海峡の南を回って太平洋に入った。
1722年4月5日、船団は、大陸ではなく一つの島を見つけた。周り数千キロに人の住む島の無い、太平洋でも最も孤立した島である。その日が復活祭の日曜日だったので、パーシュ・エイラント、「イースター島」と名づけた。島の人々は自分たちの島を「世界のへそ」とも呼び、のちにラパ・ヌイの名が広まる。
上陸した一行は、海岸に背を向けて立つ巨大な石の像を見た。モアイの造営である。大きな木も、丈夫な綱も見当たらない島で、どうやってこれを運び、立てたのか、と記録に書いている。上陸の混乱の中で、船員は島の人々に発砲し、十人ほどを殺した。一行は上陸から間もなく島を離れた。
その後の百五十年は、島にとって過酷だった。18世紀の後半から像は倒されはじめ、19世紀の半ばにはすべてが倒れていた。1862年、ペルーの奴隷狩りの船が千人を超える島の人々を連れ去り、帰された人々が天然痘を持ち込む。1877年、島の人々は111人にまで減った。島がなぜ変わったのかは、森を切り尽くした自滅として語られることが多いが、ネズミの害や、ヨーロッパ人が来てからの災いを重く見る研究もある。