「新大陸」という認識
概要
コロンブスはアジアに着いたと信じたまま死んだ。そこが別の大陸だと書いた航海者の名から、地図製作者が「アメリカ」と名づけた。
場所
48.28°N 6.95°E · フランス・ヴォージュ県
関わった人(1)
アメリゴ・ヴェスプッチAD1454年3月9日–AD1512年2月22日 · その手紙が根拠になった本文
コロンブスは、アジアに着いたと信じたまま、1506年に死んだとされる。1492年から1504年まで4回大西洋を渡り、カリブの島々と中米の海岸を巡ったが、そこはインドの東の端か、中国に近い島々だと考え続けた(コロンブスの到達)。3回目の航海で南米のオリノコ川の河口に大量の真水が流れ出ているのを見て、大きな陸地があると書き残してもいる。それでも、その陸がアジアとは別の大陸だという考えには至らなかったとされる。
アメリゴ・ヴェスプッチは、フィレンツェの公証人の家に生まれ、メディチ家の代理人としてセビリアに渡り、航海の準備に関わる仕事をしていた。1499年ごろからは自分でも船に乗ったとされる。確かなのは、1501年から翌年にかけてのポルトガルの航海で、ブラジルの海岸を南へ長く下ったことになる。前年にカブラルのブラジル到達があり、ポルトガルはその陸地がどこまで広がっているかを確かめようとしていた。
ヴェスプッチは、旅で見た南の空の星や、どこまでも続く海岸線、そこに住む人びとの暮らしを手紙に書いた。その地はアジアの一部ではなく、古代の人びとが知らなかった新しい世界だ、と。この手紙をもとにした小冊子『新世界』が1503年ごろに出版され、ラテン語からいくつもの言葉に訳されて、ヨーロッパ中で読まれた。グーテンベルクの活版印刷から半世紀、旅の話は売れる商品になっていた。続いて、4回の航海を語る別の手紙も印刷された。

1507年、ロレーヌ地方の小さな町サン=ディエで、地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーと仲間の学者マティアス・リングマンが、12枚の版木を組み合わせた大きな世界地図と、その解説書『宇宙誌入門』を出した。地図の西の端には、細長い新しい陸地が、海に囲まれて描かれている。その南の部分に、「アメリカ」と書き込まれた。
解説書は名前の理由を説明している。この第四の部分はアメリゴが見つけたのだから、彼にちなんで「アメリゲ」、つまりアメリゴの土地、あるいは「アメリカ」と呼んでよいだろう。ヨーロッパもアジアも女性の名から取られているのだから、と。アメリゴのラテン語形アメリクスを女性形にしたものがアメリカになる。

地図は1000部刷られたとされる。いま残っているのは1部だけで、1901年に南ドイツの城で見つかり、2003年にアメリカ議会図書館が買い取った。「アメリカ」という名が初めて書かれた地図として、「アメリカの出生証明書」と呼ばれることがある。
ヴァルトゼーミュラー自身は、のちの地図ではこの名を使わなかった。1516年の大きな海図では、同じ陸地を「未知の土地」と書いている。理由は分かっていない。コロンブスの功績を知って考えを改めたのではないか、とも言われる。しかし名前はすでに広まっていた。1538年、メルカトルが自分の世界地図で北と南の両方の大陸に「アメリカ」の名を当て、それが定着していく。

ヴェスプッチ本人が、この名づけを知っていたかどうかは分からない。1505年にカスティーリャの市民権を得て、1508年にはスペインの首席水先案内人に任じられ、航海士の試験と公式の海図の管理を担った。1512年、セビリアで死んでいる。
彼の手紙には、昔から疑いがかけられてきた。印刷された手紙には、ほかの人の航海との混同や誇張、つじつまの合わない日付がある。出版した側が手を加えたという見方も強い。一方、手書きで残る私信は内容が控えめで、こちらは本人のものと考えられている。16世紀には、コロンブスの手柄を盗んだ男だと非難する声もあった。だが、ヴェスプッチ自身が大陸に自分の名を求めた証拠は無い。

アジアに着いたと思う限り、見えるものはアジアの続きでしかない。そこが新しい大陸だと認めたとき、はじめて、その陸は地図の上で独立した一つの部分になった。数年後、世界一周の達成が、その大陸の向こうにさらに大きな海があることを示し、地球の大きさの見積もりは書き換えられていく。名前を与えた1507年の地図は、その転換の最初の記録になった。