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Event / できごと

バタヴィア号の遭難

Batavia (1628 ship)
AD1629年6月4日
重要度 3
ネーデルラント連邦共和国マレーのイスラム諸国PapousWiradjuriKokathaMarduPintupiオーストラリア先住民(狩猟採集)WatjarriArrernteWarlpiriNyanganyatjaraMirningBidjaraKalaamayaKamilaroiNyangumardaWawulaWarumunguWiranguNgatatjaraNgaanyatjarraIningaiMandjindjaタスマニアの狩猟採集民WangkangurruWangkathaaKalaako/MalpaLuritjaYankuntjatjaraNakakoPitjantjatjaraGugu-BadhunBanggarlaAlyawarreWudjariArabanaWongaibonKaytejDharawalaAntakarinjaWakayaBarundjiAD1629年6月4日アブロルホス諸島(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1629年6月4日の版図を描いています(43勢力)。

概要

1629年6月4日の未明、ジャワのバタヴィアへ向かっていたオランダ東インド会社の船バタヴィア号が、オーストラリアの西の沖の岩礁に乗り上げた。司令官のペルサールトは小舟で助けを呼びに発つ。残された島で、商務員のコルネリスが仲間と組んで島を支配し、百人を超える男女と子どもを殺した。救援の船が着いたとき、兵士たちの別の一団が抵抗を続けていた。反乱者は処刑され、二人は大陸の岸に置き去りにされる。この二人が、記録に残る最初のオーストラリアに住んだヨーロッパ人になった。

場所

アブロルホス諸島位置は特定されていない(誤差 ±km)
-28.49°N 113.79°E · オーストラリア・西オーストラリア州

本文

バタヴィア号は、オランダ東インド会社が作ったばかりの大きな船だった。1628年10月、銀貨と交易の品を積み、三百人を超える人を乗せてオランダを出た。行き先はジャワ島のバタヴィアである。当時の船は、喜望峰を回ったあと強い西風に乗ってインド洋を東へ走り、オーストラリアの西の沖で北へ向きを変えていた。その曲がり目を見誤ると、未知の大陸の岸にぶつかる。

1629年6月4日の未明、船はアブロルホス諸島の岩礁に乗り上げた。人々は水の無い小さな島々に上がった。司令官のペルサールトは、船長らと小舟で水を探しに出たが見つからず、そのまま二千キロ以上北のバタヴィアまで助けを求めに行った。

残された島で、商務員補のイェロニムス・コルネリスが仲間を集め、武器と食べ物を握った。救援の船が来る前に船を乗っ取り、宝を持って逃げるつもりだった。邪魔になりそうな者から順に、男も女も子どもも殺していく。殺された者は百人を超えた。別の島に水を見つけた兵士のウィッベ・ハイエスの一団だけが、手製の武器で襲撃を退けた。

9月、ペルサールトが船で戻ったとき、ハイエスらが先に知らせに走り、反乱者は捕らえられた。コルネリスらは島で処刑され、若い二人は大陸の岸に置き去りにされる。二人のその後は分かっていない。オーストラリアへの入植より150年以上前のことである。沈んだ船体は1963年に見つかり、いまは西オーストラリアの博物館に置かれている。

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