人物

義浄

Yijing
AD635年 – AD713年(享年78・推定)
唐重要度 3

概要

玄奘の陸路に対して、海路でインドへ行き帰りした。往復でシュリーヴィジャヤに滞在し、そこで見た仏教の様子と、海の道の僧たちの記録を残した。

所属

唐

関わったできごと(1)

義浄のシュリーヴィジャヤ滞在AD671年 · 滞在した

本文

義浄は635年、唐の時代の中国北部に生まれた。幼くして寺に入り、10代で出家したとされる。645年、玄奘がインドから大量の経典を持ち帰り、長安は大いに沸いた。義浄はまだ10歳ほどで、のちに自分は東晋の法顕と玄奘の旅を慕っていた、と書いている。仏の教えを、訳された経典ではなく、生まれた土地で学びたい。義浄は若いころからそう願っていた。

義浄の著書『南海寄帰内法伝』
義浄の著書『南海寄帰内法伝』Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

とりわけ義浄が知りたかったのは、僧の暮らしの決まり、つまり戒律だった。中国に伝わった戒律の書は数が限られ、解釈も寺によってまちまちだった。インドの僧が実際にどう暮らし、どう食べ、どう衣を着ているのかを自分の目で確かめたい。それが旅の動機の中心にあった。

玄奘が陸路で中央アジアを越えたのに対し、義浄は海の道を選んだ。7世紀の南シナ海とインド洋には、ペルシアやインド、東南アジアの商人の船が行き交っていた。671年、30代半ばの義浄は広州でペルシアの商船に乗り、南へ向かった。一緒に行く約束をしていた僧たちは、次々に脱落したという。

20日ほどで着いたのが、スマトラ島のシュリーヴィジャヤだった(シュリーヴィジャヤの海上交易)。マラッカ海峡を押さえて交易で栄えた国で、義浄は都に半年とどまり、サンスクリットの文法を学んだ(義浄のシュリーヴィジャヤ滞在)。そこから王の助けで船を得て、マレー半島を経てベンガル湾を渡り、673年にガンジス川の河口に近い港タームラリプティに着いた。

義浄はそこで1年ほど言葉を学び、やがて仏教学の中心だったナーランダー僧院に入った(ナーランダー僧院の創建)。約10年をここで過ごし、経典と戒律を学び、各地の聖地を巡った。病に倒れて命を落としかけ、旅の途中で盗賊に襲われ、身ぐるみ剥がされたこともあった、と自分で書いている。

680年代の半ば、義浄は集めた経典を抱えて帰路につき、再びシュリーヴィジャヤに寄った。ここで経典を訳し、旅の記録をまとめるつもりだった。689年、手紙を中国へ託そうと港の船に乗り込んだところ、風が良くなって船がそのまま出てしまい、義浄は思いがけず広州に戻ってしまった、と伝えられる。経典は島に置いたままだった。義浄は広州で助手となる僧を募り、同じ年のうちにシュリーヴィジャヤへ戻った。

この島で書き上げたのが、『南海寄帰内法伝』と『大唐西域求法高僧伝』である。前者は、インドと南の海の国々の僧院で、僧が朝起きてから寝るまでどう暮らしているかを、食事の作法、衣の着方、病の治し方、師弟の礼まで細かく書いたものだ。後者は、唐の時代に海や陸を越えてインドを目指した僧たち50人余りの伝記で、その多くは途中で病に倒れ、帰って来なかった。義浄は彼らの名を書き残すことで、無名の旅人たちの記録を作った。

義浄は、シュリーヴィジャヤの都には1000人を超える僧がいて、インドと同じように学んでいると書いた。インドへ行く中国の僧は、まずここで1、2年学んでから行くとよい、とも勧めている。この記述は、7世紀のシュリーヴィジャヤについて最も古く、最も詳しい記録の一つになっている。

695年、義浄はようやく洛陽に帰り着いた。671年の出発から24年が過ぎていた。持ち帰った経典は約400部に及んだ。都は武則天の治世で(則天武后の即位)、女帝は自ら城門に出て義浄を迎えたと伝えられる。

帰国後の義浄は、洛陽と長安で翻訳に打ち込んだ。華厳経の新しい訳に加わり、のちに自分の訳場を持った。とりわけ力を入れたのが、インドで学んだ根本説一切有部という部派の戒律の書の翻訳である。生涯に訳した経典は、数え方によって違うが、56部230巻ほどとされる。713年、78歳で長安に没した。

義浄の記録は、のちの時代に別の価値を持つことになった。インドでは仏教が衰え、僧院の暮らしを伝える記録はほとんど残らなかった。義浄が細かく書き留めた日々の作法は、7世紀のインドの仏教の実際を知る、ほかに代わりのない史料になっている。法顕、玄奘と並んで、義浄の名は求法の旅の三人として語られる。

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