できごと

ドレークの世界周航

Francis Drake's circumnavigation
AD1580年9月26日
重要度 4
スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国ロシア帝国ノガイ・オルダポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェースウェーデン神聖ローマ帝国フランス王国サーミスペインWatassid MoroccoEngland and Irelandアストラハン・ハン国クリム・ハン国ヴェネツィア共和国スコットランドHabsburg NetherlandsNaplesプロイセンAD1580年9月26日プリマス
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1580年9月26日の版図を描いています(22勢力)。

概要

海賊がスペインの船を襲いながら3年で地球を回った。持ち帰った金銀は女王の年収の倍で、女王は船の上で騎士にした。スペインは引き渡しを求め、女王は断った。8年後のアルマダは、ここから始まる。

場所

プリマス
50.38°N -4.14°E · イギリス・イングランド

関わった人(2)

フランシス・ドレークAD1540年頃–AD1596年1月28日 · 船長エリザベス1世AD1533年9月7日–AD1603年 · 女王

本文

16世紀の後半、アメリカ大陸の金と銀は、スペインの船で本国へ運ばれていた。新教の国イングランドの船乗りたちは、カトリックの大国スペインの富をねたみ、隙あらば奪おうとした。フランシス・ドレークも、親類のホーキンズの船団に加わって、アフリカの人々を奴隷として運び売る航海(大西洋奴隷貿易)に出たことがあり、1568年にはメキシコのサン・フアン・デ・ウルアでスペイン艦隊に騙し討ちにあって、命からがら逃げ帰った。以来、彼はスペインへの憎しみを隠さず、カリブ海でスペインの銀の輸送を襲って名を上げていた。

1577年12月13日、ドレークは5隻の船と160人あまりの乗組員を率いて、イングランドの西のプリマスを出た。旗艦はペリカン号。行き先は、地中海のアレクサンドリアだと言いふらされていた。本当の狙いは、スペインの守りの薄い南米の太平洋岸だった。エリザベス1世はこれを知っていて、出資者の一人にもなっていたが、スペイン王に知られないよう、表向きは関わっていない形をとった。

航海は初めから荒れた。1578年6月、一行はアルゼンチンの南のサン・フリアン湾に入った。半世紀前、マゼラン(世界一周の達成)が反乱を起こした部下を処刑した場所で、その絞首台の跡がまだ残っていたという。ここでドレークは、出資者に近い紳士で、航海の途中から彼と対立していたトマス・ダウティを反逆の罪で裁き、首をはねた。そして乗組員を集めて、これからは紳士も水夫と一緒に綱を引け、と言い渡した、と伝えられる。身分の違う者たちのいがみ合いが、航海を危うくしていたのである。

世界一周の達成に関わる図版:Detail from a map of Ortelius - Magellan's ship Victoria
世界一周の達成Wikimedia Commons Abraham Ortelius · Public domain

8月、ドレークは船をゴールデン・ハインド号と改名した。出資者の一人ハットンの紋章の雌鹿にちなんだ名である。マゼラン海峡は、16日ほどで抜けた。だが太平洋に出たとたん、大嵐が何週間も続き、1隻は沈み、1隻ははぐれてイングランドへ引き返した。南へ流されたドレークは、南米の大陸の南に、陸ではなく開けた海が広がっていることを見た。のちにその海は、彼の名をとってドレーク海峡と呼ばれる。太平洋を北へ進めたのは、ゴールデン・ハインド号1隻だけになった。

1579年の初め、ドレークはチリとペルーの港を次々に襲った。スペイン人は、太平洋に敵の船が来るとは思っておらず、港も船もろくに守っていなかった。リマの外港カヤオで、銀を積んだ船が北へ向かったと聞くと、彼はそれを追った。3月1日、エクアドルの沖でその船ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・コンセプシオン号に追いつき、乗り移って奪った。乗組員たちがカカフエゴ(火を吐く者、という下品なあだ名)と呼んでいた船で、積んでいたのは金と、26トンほどの銀と、宝石だった。荷を移すのに何日もかかったという。

ドレークの1577〜1580年の航路図(作者不詳、1590年頃)
ドレークの1577〜1580年の航路図(作者不詳、1590年頃)Wikimedia Commons unattributed · Public domain

奪った宝を抱えて同じ道を帰れば、待ち構えるスペイン船に捕まる。ドレークは北へ向かい、アジアへ抜ける北西の航路を探したが見つからず、北アメリカの西岸に上陸して船を修理した。彼はその地をノヴァ・アルビオン(新しいイングランド)と名づけ、女王の領地であると記した真鍮の板を打ちつけたという。上陸した場所はカリフォルニアのどこかとされるが、いまも決着がついていない。1936年に見つかったとされた真鍮の板は、のちの調べで偽物と分かった。

1579年7月、ドレークは太平洋を西へ横断し、2か月あまりで島々にたどり着いた。香料諸島(モルッカ諸島)のテルナテ島では、王と丁子の取引を約束した。その先で船は暗礁に乗り上げ、大砲や香料を捨ててようやく浮かび上がった。インド洋を渡り、喜望峰を回って、1580年9月26日、ゴールデン・ハインド号はプリマスに戻った。出航から2年10か月。帰り着いたのは60人足らずだった。ドレークが港で最初に尋ねたのは、女王はまだ生きているか、だったという。女王が死んでいれば、彼はスペインに引き渡される海賊として扱われかねなかった。

南米で先住民と会うドレークを描いた絵(テオドール・ド・ブライ画)
南米で先住民と会うドレークを描いた絵(テオドール・ド・ブライ画)Wikimedia Commons Public domain

自分の船で世界を一周して帰ってきた船長は、彼が初めてだった。マゼランは航海の途中で死んでいる。スペインの大使メンドーサは、海賊を罰し、奪った物を返すよう求めた。女王は答えを引き延ばした。1581年4月4日、女王はロンドン近くのデトフォードに停めたゴールデン・ハインド号に自ら乗り込み、ドレークを騎士にした。剣で肩を打つ役は、その場にいたフランスの使者に任せた。フランスにも責任の一端を負わせる、女王らしいやり方だった。

持ち帰った富は莫大で、出資者には元手の何十倍もの配当があったとされる。のちに経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、女王が自分の取り分で外国からの借金を返し、残りをレヴァント会社に投じ、その利益が東インド会社の元手になったと書いて、ドレークの持ち帰った宝はイギリスの海外投資の源と見なせる、とまで述べた。スペイン王フェリペ2世の怒りは深まり、両国の争いは、1588年のアルマダ(アルマダの海戦)へと向かっていく。そのとき、イングランド艦隊の副司令官を務めたのがドレークだった。

アルマダの海戦に関わる図版:Loutherbourg-Spanish Armada
アルマダの海戦Wikimedia Commons Philip James de Loutherbourg · Public domain

ゴールデン・ハインド号は、記念としてデトフォードに長く置かれたが、やがて朽ち、17世紀の半ばには姿を消した。その木材で作られた椅子が、いまもオックスフォードのボドリアン図書館に残っている。

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