できごと

カボットのニューファンドランド到達

John Cabot reaches Newfoundland
AD1497年6月24日
重要度 4
DënéndehInuitMichif Piyii (Métis)Očhéthi ŠakówiŋクリーAnishinabewaki ᐊᓂᔑᓈᐯᐗᑭチューレ文化Denendeh (Dënësųłinë́ Nëné)デンマーク=ノルウェー𐓏𐒰𐓓𐒰𐓓𐒷 𐒼𐓂𐓊𐒻 𐓆𐒻𐒿𐒷 𐓀𐒰^𐓓𐒰^(Osage)Kiikaapoi (Kickapoo)Nitassinan (Innu)Nunavikミシシッピ文化スペイン帝国Eeyou IstcheeKaskaskiaO-ga-xpa Ma-zhoⁿ (O-ga-xpa)Wabanaki (Dawnland Confederacy)MyaamiaShawandasse Tula (Shawanwaki/Shawnee)S’atsoyaha (Yuchi)ᏣᎳᎫᏪᏘᏱ Tsalaguwetiyi (Cherokee, East)CoahuiltecanNunatuKavutEnglandᒋᑦ ᐊᔅᒋᓄᐤ St'aschinuw (Naskapi)PeoriaMvskoke (Muscogee / Creek)Mi'kma'kiSauk and MeskwakiタイノAbenaki / AbénaquisOmàmìwininìwag (Algonquin)MississaugaカドーBodéwadmiakiwen (Potawatomi)Washtáge Moⁿzháⁿ (Kaw / Kansa)AdenaChahta Yakni (Choctaw)ポルトガル帝国ベオスックWendake-Nionwentsïoイロコイ連邦NunatsiavutLumbeeMdewakantonHopewellYanktonNitaskinan (Atikamekw / Nehirowisi Aski)SeminoleChikashsha Yaki (Chickasaw)Hoocąk (Ho-Chunk)Nahua ( Morelos, Puebla, Tlaxcala, Veracruz, Hidalgo, San Luis Potosi)Abitibiwinni AkiIowaTonkawaSusquehannockMoose CreeWolastoqiyik Wahsipekuk (Maliseet)OdawaTimucuaWahpetonMenomineeSissetonKanienʼkehá꞉ka (Mohawk)KarankawaAD1497年6月24日ニューファンドランド
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概要

ヴェネツィア人がヘンリー7世の特許で、ブリストルから小さな船一隻、18人で西へ。5週間。「新しく見つけた土地」。魚が籠で掬えた。翌年、5隻で出て、帰らなかった。イギリスの北米の主張は、この一隻から。ヴァイキングの500年後。

場所

ニューファンドランド
47.56°N -52.71°E · カナダ

関わった人(1)

ジョン・カボットAD1450年頃–AD1498年頃 · 航海

本文

ジョン・カボット(ジョン・カボット)の本名はジョヴァンニ・カボート、ヴェネツィアの記録ではズアン・カボトと書かれる。生まれはジェノヴァともガエータとも言われてはっきりせず、1476年にヴェネツィアの市民権を得ている。ロンドン駐在のヴェネツィア人が本国に送った手紙によれば、カボットは若いころメッカまで行き、香料がはるか東の国から隊商で運ばれてくると聞いて、西へ回れば産地に早く着けると考えたという。1490年代の初めにはスペインのバレンシアで港の工事の計画にかかわった記録があり、コロンブスが1492年に西へ渡った知らせを、イベリア半島で聞いたとみられている。

カボットが目を付けたのはイングランドの港ブリストルだった。ブリストルの商人は、1480年ごろから大西洋の西にあるという「ブラジル島」を探して船を出しており、アイスランドとの干し魚の取引で北の海に慣れていた。1496年3月5日、国王ヘンリー7世はカボットと息子たちに特許状を与えた。東・西・北の海を航海し、キリスト教徒にまだ知られていない異教徒の土地を見つけて、王の名で領有してよい。南の海が外されているのは、スペインとポルトガルの取り分に踏み込まないためだったと考えられる。同じ年の最初の航海は、食料の不足と悪天候、乗組員との揉めごとで引き返した。

ジョン・カボット
ジョン・カボットWikimedia Commons Giustino Menescardi · Public domain

1497年5月、カボットは小さな船マシュー号でブリストルを出た。50トンほど、乗り組みは18人から20人ほどだったとされる。アイルランドの沖を過ぎて西へ進み、6月24日、洗礼者ヨハネの祝日に陸地を見た。カボットは一度だけ上陸して、十字架を立て、イングランド王の旗とローマ教皇の旗、ヴェネツィアの旗を掲げたと伝えられる。人の姿は見なかったが、木を切り倒した跡や獣を捕る罠、網を編む針、焚き火の跡があり、住む者がいることは分かった。乗組員は危険を感じて、遠くへは踏み込まなかった。

目を見張らせたのは海だった。ミラノの使節の報告によれば、水夫たちは、海に魚があふれていて、石を重しにした籠を下ろすだけで掬い上げられると語った。タラである。のちに北米の東の海はタラ漁の大漁場となり、ヨーロッパ各国の漁船が毎年通うようになる。カボットが最初に持ち帰った富は、香料ではなく魚の話だった。

ジョヴァンニ・カボット(ジョン・カボット)の胸像
ジョヴァンニ・カボット(ジョン・カボット)の胸像Wikimedia Commons Luigi Baldin · CC BY 4.0

どこに着いたのかは、はっきりしない。ニューファンドランドのボナヴィスタ岬とする説が地元では根強いが、カナダのケープ・ブレトン島、ラブラドール、さらに南のメイン州とする説もある。航海日誌も地図も残っていないためである。カボットは海岸沿いにしばらく進んだのち東へ戻り、8月6日にブリストルへ帰り着いた。

ロンドンでカボットは時の人になった。王の手元金の帳簿には、8月10日付で「新しい島を見つけた者に」10ポンドを与えたと記され、12月には年20ポンドの年金が約束された。ヴェネツィア人ロレンツォ・パスクアリーゴは本国への手紙で、カボットが絹をまとって歩き、人々が「大提督」と呼んで狂ったように後を追っていると書いている。カボット自身は、自分が着いたのはアジアの北の端であり、次は海岸をたどって西へ進めば大ハーンの国や日本(シパング)に届き、ロンドンを香料の市場にできると説いた。

1897年、カボットの北米到達400周年を記念してニューファンドランド郵政が発行した切手「マシュー号」
1897年、カボットの北米到達400周年を記念してニューファンドランド郵政が発行した切手「マシュー号」Wikimedia Commons UK/Newfoundland Post Office · Public domain

1498年5月、カボットは5隻を率いて再び出た。そのうち1隻は嵐で傷み、アイルランドに引き返した。残る4隻とカボットのその後は分かっていない。海で失われたというのが長く通説だったが、ロンドン大学の歴史家アルウィン・ラドックが、カボットは1500年ごろまで生きてイングランドに戻っていたことを示す史料を見つけたと主張した。彼女は根拠を示さないまま2005年に亡くなり、研究ノートは遺言で処分された。ブリストル大学のグループがその足取りを追っているが、確かめられたとは言えない。1500年ごろのスペインの航海者フアン・デ・ラ・コサの世界図には、北米の海岸にイングランドの旗が並び、「イングランド人が見つけた海」と書き込まれている。

息子のセバスチャン・カボットはのちにスペインとイングランドに仕えた航海者で、1508年ごろに北西航路を探して北の海へ出たとされる。ただ彼は父の業績を自分の手柄のように語る癖があり、1497年の航海の記録が混乱したのは、そのせいでもある。

ブリストル、アーノルフィニ・ギャラリーにあるジョン・カボット像。1497年の航海はブリストルから出発した
ブリストル、アーノルフィニ・ギャラリーにあるジョン・カボット像。1497年の航海はブリストルから出発したWikimedia Commons Myself ( Adrian Pingstone ). · Public domain

カボットの航海はすぐには実を結ばなかった。ヘンリー7世の関心は薄れ、イングランドが北米に本気で乗り出すのは80年以上あとである。1583年、ハンフリー・ギルバートがニューファンドランドのセントジョンズでこの島をイングランド女王のものと宣言し、1607年にはヴァージニアにジェームズタウンが築かれる(ジェームズタウンの建設)。そのときイングランドが北米の領有の根拠として持ち出したのが、1497年のカボットの上陸だった。

ヨーロッパ人がこの海岸に来たのは初めてではない。およそ500年前、ノルド人がニューファンドランドの北端に住みついていた(ヴィンランド到達)。その後に続くヴェラッツァーノが1524年、ジャック・カルティエが1534年である。1997年、復元されたマシュー号がブリストルからボナヴィスタまで同じ海を渡り、6月24日に着いた。岬にはカボットの像が立っている。

同じ時代のできごと

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