できごと

世界一周の達成

First circumnavigation
AD1522年
重要度 5
世界一周の達成に関わる図版:Detail from a map of Ortelius - Magellan's ship Victoria
Detail from a map of Ortelius - Magellan's ship Victoria Wikimedia Commons Abraham Ortelius · Public domain

概要

地球が丸くつながっていることが、航海によって実証された。出航した270人のうち18人が帰り着く。

場所

リスボン
38.72°N -9.14°E · ポルトガル

関わった人(1)

マゼランAD1480年頃–AD1521年4月27日 · 船団を率いた(本人は途上で戦死)

本文

1522年9月、スペイン南部の港サンルーカル・デ・バラメーダに、傷んだ1隻の船が入ってきた。ビクトリア号である。3年前、5隻の船団がここから出航したとき、乗組員はおよそ240人から270人いた。帰ってきたのは18人。船団を率いたマゼランの姿は、そこには無かった。それでも彼らは、西へ西へと進み続け、地球を一周して同じ港へ戻ってきたのである。

マゼランはポルトガルの小貴族の出身で、若いころからインドや東南アジアへの航海に加わり、1511年のマラッカ攻略にも参加した。香辛料の産地であるモルッカ諸島の話も、そこで聞いていたとされる。だが帰国後、ポルトガル王マヌエル1世に冷遇され、マゼランはスペインへ移った。

マゼランの航海資金提供に同意した18歳のスペイン王カルロス(ベルナール・ファン・オルレイ画、1517年頃)
マゼランの航海資金提供に同意した18歳のスペイン王カルロス(ベルナール・ファン・オルレイ画、1517年頃)Wikimedia Commons Manner of Bernard van Orley / Bernard van Orley / After Bernard van Orley · Public domain

当時、スペインとポルトガルは、大西洋に引いた線で世界を二分する取り決めを結んでいた。線の東はポルトガル、西はスペインの勢力圏である。だが地球の裏側で、その線がどこを通るのかは誰にも分からなかった。マゼランは、モルッカ諸島はスペインの側にあると主張し、西回りで、つまりポルトガルの海を通らずにそこへ行けると説いた。若いスペイン王カルロス1世、のちの皇帝カール5世が、この計画を支援した。

1519年9月、5隻の船団は出航した。南アメリカの海岸を南下し、いまのアルゼンチンのパタゴニアの湾で冬を越すことになったとき、スペイン人の船長たちが反乱を起こした。マゼランはこれを鎮め、首謀者の一人を処刑し、一人を岸に置き去りにした。偵察に出た1隻は座礁して失われた。

フアン・セバスティアン・エルカーノの肖像(19世紀)
フアン・セバスティアン・エルカーノの肖像(19世紀)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

1520年10月、船団は大陸の南端近くで、西へ抜ける入り組んだ海峡を見つけた。のちにマゼラン海峡と呼ばれる水路である。抜けるのに1か月以上かかり、その間に1隻が隊を離れてスペインへ逃げ帰った。11月の末、残る3隻はついに海峡を抜け、穏やかな大洋に出た。マゼランはこれを「平和な海」と名付けた。太平洋の名の由来である。

だが、その海は誰の想像よりも広かった。陸の影を見ないまま、3か月以上の航海が続いた。食料は尽き、乗組員は虫のわいたビスケットの粉や、帆桁に巻いた牛革を水に浸して焼いたもの、ネズミを食べた。壊血病で歯ぐきが腫れ、多くの者が死んだ。この航海を記録したイタリア人の乗組員ピガフェッタは、二度とこのような航海はできないだろうと書いている。1521年3月、船団はようやくマゼランの太平洋横断で、グアム島と思われる島にたどり着いた。

フェルディナンド・マゼランの肖像
フェルディナンド・マゼランの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

続いてフィリピン諸島に着いたマゼランは、セブ島の首長を説いてキリスト教の洗礼を受けさせ、周辺の首長たちにも服従を求めた。これを拒んだのが、隣のマクタン島の首長ラプ=ラプである。1521年4月、マゼランはわずかな部下を率いてマクタン島に上陸し、浅瀬で戦って殺された。ラプ=ラプはいま、フィリピンで外国の侵略に抵抗した最初の英雄とされている。

指揮官を失った一行は、その後セブでも襲われて多くの士官を失った。人手が足りなくなったため1隻を焼き、残る2隻で11月にモルッカ諸島にたどり着き、丁子を積み込んだ。1隻は太平洋を東へ戻ろうとして失敗し、ポルトガルに捕らえられた。最後のビクトリア号を率いたのが、反乱に加わりながら許されていたバスク人の航海士エルカーノである。エルカーノはポルトガルの船を避けてインド洋を横断し、アフリカの南端を回って帰路を急いだ。その航海の結末はエルカーノの世界周航の完成に詳しい。

1500年、ブラジルをポルトガル領としたペドロ・アルヴァレス・カブラルのポルト・セグーロ上陸(1922年の絵)
1500年、ブラジルをポルトガル領としたペドロ・アルヴァレス・カブラルのポルト・セグーロ上陸(1922年の絵)Wikimedia Commons Oscar Pereira da Silva · Public domain

帰り道、補給のためにポルトガル領のカーボベルデ諸島に寄ったとき、乗組員たちは奇妙なことに気づいた。自分たちが航海日誌に書いてきた日付が、島の暦より1日遅れていたのである。ピガフェッタは毎日欠かさず日付をつけていたので、数え間違いとは思えなかった。西へ回り続けると、太陽を追いかけるうちに1日を数え損なう。理屈で考えれば当然のことだが、実際に体験した者はそれまでいなかった。この驚きは、のちに日付変更線という考えにつながっていく。

この航海で、地球が丸く、海でつながっていることが、実際に回ることによって確かめられた。同時に、太平洋がどれほど広いかが初めて分かり、地球の大きさを小さく見積もっていた当時の地図は描き直されることになった。持ち帰った丁子の売り上げで、5隻のうち4隻を失った航海の費用はまかなえたとされる。

サン・フリアンの反乱で殺害された船長ルイス・デ・メンドーサ
サン・フリアンの反乱で殺害された船長ルイス・デ・メンドーサWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

マゼランの奴隷で、通訳として連れられていたマレー系の男エンリケが、もしフィリピン周辺の出身だったなら、故郷に戻った時点で最初に世界を一周した人物になる、という説もあるが、確かめる手段は無い。モルッカ諸島をめぐるスペインとポルトガルの争いは、1529年、スペインが権利をポルトガルに売り渡すことで決着した。一方、スペインはフィリピンを拠点にしてアジアに足場を築いた。フィリピンは、アメリカ大陸を経由する西回りの航路でスペインとつながっていたため、その日付は長くアジアの隣国より1日遅れたままで、1844年の暮れにようやく1日を飛ばして周りに合わせた。

出典(2)

アントニオ・ピガフェッタ 『最初の世界周航』全篇
ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之 訳) 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』第15章 科学と帝国の融合

同じ時代のできごと

ハラールの城壁都市AD13〜16世紀サン・ピエトロ大聖堂の建て替えAD1506年「新大陸」という認識AD1507年(ヴァルトゼーミュラーの地図)王陽明の龍場の悟りAD1508年システィーナ礼拝堂の天井画1508年マラッカの陥落AD1511年エラスムス『愚神礼賛』AD1511年ピーリー・レイースの世界図AD1513年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1522年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →