できごと

玄奘の西域行

Xuanzang's journey to India
629年 – 645年
期間を持つできごと重要度 4
古シベリアの狩猟採集民コイサン西アフリカの穀作農民唐ササン朝ペルシア東ローマ帝国突厥ヒンドゥーの諸王国カナウジチャールキヤ朝ガウダ王国(シャシャーンカ)インドの影響下の小国群ササン朝の従属国高句麗タイ系の諸王国PallavasHejazKamarupa真臘ハザールドヴァーラヴァティー扶南チャーハマーナ朝チャンパ新羅Mazunシンハラ629年ナーランダー
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている629年の版図を描いています(27勢力)。

概要

国禁を犯して出発し、17年かけて経典657部を持ち帰った。旅の記録は当時の中央アジアとインドの一級史料になる。

場所

ナーランダー
25.14°N 85.44°E · インド・ビハール州

関わった人(1)

玄奘AD602年頃–AD664年 · 当人

本文

玄奘は602年ごろ、洛陽に近い村に生まれた。早くに両親を亡くし、出家していた兄に連れられて寺に入り、13歳で僧になる。隋が倒れて唐の成立に至る戦乱のなか、兄とともに各地の名僧を訪ねて学んだ。若くして経典の講義で名を知られるようになったが、学べば学ぶほど、疑問が増えていった。

理由は、経典の翻訳が食い違うことだった。インドから伝わった仏典は、何百年もかけて、さまざまな訳者の手で漢文に移されてきた。同じ教えが、訳によって別のことを言っている。学派どうしの論争も、もとをたどれば訳語の違いに行き着くことがあった。とくに玄奘が求めたのは、心のはたらきを細かく分析する唯識の教えの根本の書だった。原典に当たるしかない。インドへ行こう、と彼は決めた。

玄奘の肖像
玄奘の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

当時、唐は勝手に国境を出ることを許していなかった。建国まもない唐は、北西の突厥と緊張関係にあり、人の出入りを厳しく取り締まっていた。玄奘は出国の許しを願い出たが、認められない。629年ごろ(627年とする説もある)、彼は国禁を犯して長安を発った。

河西回廊を夜に紛れて進み、玉門関の外の砂漠に出た。道案内の男には途中で逃げられ、ひとりで砂漠を渡ることになる。水の入った革袋を取り落として水を失い、5日近く一滴も飲まずに砂の上をさまよったと伝記は語る。倒れかけたとき、馬が勝手に歩き出して草地と泉にたどり着き、命拾いしたという。

バーミヤンの大仏(1885年のスケッチ、2001年にタリバーンが破壊)
バーミヤンの大仏(1885年のスケッチ、2001年にタリバーンが破壊)Wikimedia Commons Template:Emile Therond · Public domain

砂漠の先のオアシス国、高昌(いまのトルファン)の王は熱心な仏教徒で、玄奘を手厚くもてなし、そのまま国にとどまって国師になるよう迫った。玄奘は断食して拒み、王はついに折れた。代わりに、従者と馬と旅費を与え、行く先々の王たちへの紹介状を持たせて送り出した。その助けがなければ、この先の旅は成り立たなかっただろう。天山山脈を越える氷の峠では、一行の多くが寒さで命を落とした。山の北の草原では西突厥の可汗に会い、その保護を受けて西へ進んだ。

サマルカンド、鉄門と呼ばれる峡谷を抜けてバクトリアへ。バーミヤンでは、岩壁に彫られた金色に輝く巨大な大仏を見て記録している(バーミヤンの大仏)。ヒンドゥークシュを越えてガンダーラ、カシミールで2年学び、ガンジス川の流域へ下りて、釈迦ゆかりの土地を一つずつ巡った。

玄奘のインド周遊路の推定図(629-645年)
玄奘のインド周遊路の推定図(629-645年)Wikimedia Commons Alexander Cunningham · Public domain

目的地は、北インドのナーランダー僧院だった(ナーランダー僧院の創建)。数千人の僧が学ぶ、当時の仏教世界で最大の学問の場だ。玄奘はここで、百歳を超えていたともいわれる高僧シーラバドラ(戒賢)に師事し、5年ほど唯識を学んだ。インド各地を巡ったあと、北インドを治めていたハルシャ王に招かれ、王が開いた大きな討論の集まりで論陣を張ったと伝記は伝える(ハルシャ王の北インド統一)。

645年の初め、玄奘はパミールを越え、ホータンを経て長安へ帰った。出発から17年近くがたっていた。持ち帰ったのは、経典657部、仏舎利、仏像。かつての密出国者を、町の人びとは大群衆で迎えた。皇帝唐の太宗は彼を罪に問わず、洛陽で会って、西域の事情を熱心に尋ねた。還俗して官に就くよう勧められたが、玄奘は断り、翻訳に専念することを願った。

インドから帰国する玄奘を描いた敦煌壁画(8世紀)
インドから帰国する玄奘を描いた敦煌壁画(8世紀)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

国の援助で翻訳の場が設けられ、玄奘は664年に亡くなるまでの20年近く、ほとんど休まず訳し続けた。訳したのは75部、1335巻にのぼる。600巻ある『大般若経』もその一つで、いま日本で広く唱えられる『般若心経』も、玄奘の訳とされる。原語の意味を正確に移すことを重んじたその訳は、それ以前の訳と区別して「新訳」と呼ばれる。持ち帰った経典を納めるために建てられたのが、長安の大雁塔だった。

もう一つ残したのが『大唐西域記』になる。太宗の求めに応じ、弟子の手を借りて646年にまとめた。自ら訪れた国と伝え聞いた国、合わせて138の国について、距離、気候、産物、言語、王の系統、風俗、仏教の様子を記録している。皇帝にとっては、西方の事情を知る情報の書でもあった。

観音菩薩像
観音菩薩像Wikimedia Commons demccain Uploaded by Whipsandchains at en.wikipedia · Public domain

インドではその後、仏教が衰え、僧院も聖地も土に埋もれて場所が分からなくなっていった。19世紀、イギリスの考古学者たちはこの記録を手引きに、釈迦ゆかりの土地を次々に突き止めた。20世紀の初めに発掘されたナーランダーの遺跡も、玄奘の記述と照らし合わせて確かめられている。インドの古代史は、文字の記録が乏しいぶん、この中国の僧の目に多くを負っている。

玄奘の旅はやがて語り物になり、空想の衣をまとって、16世紀に『西遊記』の三蔵法師として生まれ変わる。孫悟空に守られる気の弱い僧の姿とは違い、本物の玄奘は、ひとりで砂漠を越え、王の引き止めを断食で振り切った人だった。

出典(1)

玄奘 『大唐西域記』全12巻

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