玄奘の西域行
概要
国禁を犯して出発し、17年かけて経典657部を持ち帰った。旅の記録は当時の中央アジアとインドの一級史料になる。
場所
25.14°N 85.44°E · インド・ビハール州
関わった人(1)
玄奘AD602年頃–AD664年 · 当人本文
玄奘は602年ごろ、洛陽に近い村に生まれた。早くに両親を亡くし、出家していた兄に連れられて寺に入り、13歳で僧になる。隋が倒れて唐の成立に至る戦乱のなか、兄とともに各地の名僧を訪ねて学んだ。若くして経典の講義で名を知られるようになったが、学べば学ぶほど、疑問が増えていった。
理由は、経典の翻訳が食い違うことだった。インドから伝わった仏典は、何百年もかけて、さまざまな訳者の手で漢文に移されてきた。同じ教えが、訳によって別のことを言っている。学派どうしの論争も、もとをたどれば訳語の違いに行き着くことがあった。とくに玄奘が求めたのは、心のはたらきを細かく分析する唯識の教えの根本の書だった。原典に当たるしかない。インドへ行こう、と彼は決めた。

当時、唐は勝手に国境を出ることを許していなかった。建国まもない唐は、北西の突厥と緊張関係にあり、人の出入りを厳しく取り締まっていた。玄奘は出国の許しを願い出たが、認められない。629年ごろ(627年とする説もある)、彼は国禁を犯して長安を発った。
河西回廊を夜に紛れて進み、玉門関の外の砂漠に出た。道案内の男には途中で逃げられ、ひとりで砂漠を渡ることになる。水の入った革袋を取り落として水を失い、5日近く一滴も飲まずに砂の上をさまよったと伝記は語る。倒れかけたとき、馬が勝手に歩き出して草地と泉にたどり着き、命拾いしたという。

砂漠の先のオアシス国、高昌(いまのトルファン)の王は熱心な仏教徒で、玄奘を手厚くもてなし、そのまま国にとどまって国師になるよう迫った。玄奘は断食して拒み、王はついに折れた。代わりに、従者と馬と旅費を与え、行く先々の王たちへの紹介状を持たせて送り出した。その助けがなければ、この先の旅は成り立たなかっただろう。天山山脈を越える氷の峠では、一行の多くが寒さで命を落とした。山の北の草原では西突厥の可汗に会い、その保護を受けて西へ進んだ。
サマルカンド、鉄門と呼ばれる峡谷を抜けてバクトリアへ。バーミヤンでは、岩壁に彫られた金色に輝く巨大な大仏を見て記録している(バーミヤンの大仏)。ヒンドゥークシュを越えてガンダーラ、カシミールで2年学び、ガンジス川の流域へ下りて、釈迦ゆかりの土地を一つずつ巡った。

目的地は、北インドのナーランダー僧院だった(ナーランダー僧院の創建)。数千人の僧が学ぶ、当時の仏教世界で最大の学問の場だ。玄奘はここで、百歳を超えていたともいわれる高僧シーラバドラ(戒賢)に師事し、5年ほど唯識を学んだ。インド各地を巡ったあと、北インドを治めていたハルシャ王に招かれ、王が開いた大きな討論の集まりで論陣を張ったと伝記は伝える(ハルシャ王の北インド統一)。
645年の初め、玄奘はパミールを越え、ホータンを経て長安へ帰った。出発から17年近くがたっていた。持ち帰ったのは、経典657部、仏舎利、仏像。かつての密出国者を、町の人びとは大群衆で迎えた。皇帝唐の太宗は彼を罪に問わず、洛陽で会って、西域の事情を熱心に尋ねた。還俗して官に就くよう勧められたが、玄奘は断り、翻訳に専念することを願った。

国の援助で翻訳の場が設けられ、玄奘は664年に亡くなるまでの20年近く、ほとんど休まず訳し続けた。訳したのは75部、1335巻にのぼる。600巻ある『大般若経』もその一つで、いま日本で広く唱えられる『般若心経』も、玄奘の訳とされる。原語の意味を正確に移すことを重んじたその訳は、それ以前の訳と区別して「新訳」と呼ばれる。持ち帰った経典を納めるために建てられたのが、長安の大雁塔だった。
もう一つ残したのが『大唐西域記』になる。太宗の求めに応じ、弟子の手を借りて646年にまとめた。自ら訪れた国と伝え聞いた国、合わせて138の国について、距離、気候、産物、言語、王の系統、風俗、仏教の様子を記録している。皇帝にとっては、西方の事情を知る情報の書でもあった。

インドではその後、仏教が衰え、僧院も聖地も土に埋もれて場所が分からなくなっていった。19世紀、イギリスの考古学者たちはこの記録を手引きに、釈迦ゆかりの土地を次々に突き止めた。20世紀の初めに発掘されたナーランダーの遺跡も、玄奘の記述と照らし合わせて確かめられている。インドの古代史は、文字の記録が乏しいぶん、この中国の僧の目に多くを負っている。
玄奘の旅はやがて語り物になり、空想の衣をまとって、16世紀に『西遊記』の三蔵法師として生まれ変わる。孫悟空に守られる気の弱い僧の姿とは違い、本物の玄奘は、ひとりで砂漠を越え、王の引き止めを断食で振り切った人だった。