マダガスカルへの到達

概要
アフリカの沖の島に最初に住み着いたのは、6000km東のボルネオから来た人びとだった。いまの言葉がそれを示している。
場所
-18.90°N 47.50°E · マダガスカル
本文
マダガスカルは、アフリカ大陸の南東の沖、モザンビーク海峡を挟んで400kmほどのところにある、世界で4番目に大きな島になる。人類がアフリカで生まれ、何十万年もアフリカに住んでいたのに、この大きな島に人が住み着いたのは、地球上でもかなり遅い時期だった。
いつ人が来たのかは、はっきりしていない。定住の確かな痕跡が増えるのは1千年紀の後半で、5世紀から8世紀ごろに人が住み着いたとする見方が多い。一方で、動物の骨に残る刃物の跡から、もっと古い時代に人が立ち寄っていたとする研究もあり、数千年前、さらには1万年前とする主張まで出て、論争が続いている。ただ、いまの住民の祖先が来た時期としては、1千年紀の半ばごろが有力になる。

来たのは、まずアフリカの人びとではなかった。1950年代、ノルウェーの言語学者ダールは、マダガスカルの言葉が、6000km以上東のボルネオ島南部の、バリト川の流域で話されるマアニャン語にいちばん近いことを示した。マダガスカル語は、台湾から東南アジアの島々、太平洋の島々にまで広がるオーストロネシア語族に属している。そこにはマレー語やジャワ語から入った言葉も混ざっていて、インドのサンスクリットの言葉も、東南アジアの言葉を通して入ってきている。
持ち込まれた暮らしも、東南アジアのものだった。水田で米を作り、バナナやヤムイモを育てる。舟の脇に浮きをつけたアウトリガーの舟を使う。竹の筒に弦を張った楽器も、東南アジアの島々のものに近い。オーストロネシア語族の人びとは、太平洋ではラピタ土器の広がりの担い手として東へ広がっていったが(ポリネシア人の太平洋拡散)、その仲間の一部は西へ、インド洋を越えていったことになる。

どうやって来たのかは分かっていない。インド洋をまっすぐ横切ったのか、インドやアラビアの海岸を伝い、東アフリカを経て来たのか。当時の東南アジアでは、のちにシュリーヴィジャヤの海上交易と呼ばれる海の交易の国が育ちつつあり、その交易の網の広がりの中で人が動いたとする説もある。どちらにしても、それまでの人類の航海で最も遠い部類に入る。
遺伝子の研究は、もう一つの面を明らかにした。マダガスカルの人びとの遺伝子は、東南アジア系とアフリカ系がおよそ半分ずつ混ざっていて、その割合は地域によって違う。母から娘へ受け継がれるミトコンドリアDNAを調べた研究は、東南アジアから来た最初の女性たちが、数十人ほどの小さな集団だった可能性を示した。
アフリカ本土からは、のちにバントゥー系の拡散で東アフリカまで広がっていたバントゥー系の人びとが渡ってきた。こぶのある牛を飼う暮らし、牛を富と考える価値観、そしてバントゥーの言葉から入った単語が、島の文化に加わった。いまのマダガスカル語にも、牛や家畜に関わる言葉にはバントゥー系のものが多い。海岸にはアラブやスワヒリの商人も来て、イスラームの影響も入った。いまのマダガスカルの人びとは、二つの大きな流れを受け継いでいる。

人が来る前のマダガスカルには、独自の動物がいた。高さ3mほどで、体重が数百kgにもなる飛べない鳥エピオルニス。ゴリラほどの大きさの巨大なキツネザル。小型のカバ。それらは、人が住み着いてから数世紀から千年ほどのうちに、次々と姿を消した。狩り、森を焼いて畑や牧草地にしたこと、気候の変化が重なったと考えられている。エピオルニスの巨大な卵の殻は、いまも島のあちこちで見つかる。
ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』で、この島をアフリカの章の最後に置いた(物語「『銃・病原菌・鉄』で読む歴史」)。アフリカの歴史をアフリカだけで語ることはできない。アフリカの沖の島に、まずアジアから人が来ていた。言葉が、人の動きのいちばん確かな記録になることを示す例として置かれている。