ホクレア号のタヒチ航海
概要
計器を使わない航海術で、ハワイからタヒチへ渡った。ハワイでは既に失われていた技術を、ミクロネシアの最後の航海者から学び直している。拡散が偶然の漂流でなかったことの実証になる。
場所
19.90°N -155.58°E · アメリカ合衆国・ハワイ州
関わった人(1)
ナイノア・トンプソンAD1953年3月11日–? · のちに航海長を務める本文
ハワイ、タヒチ、ニュージーランド、イースター島。太平洋に散らばる島々に住むポリネシアの人々は、どうやってそこへたどり着いたのか(ポリネシア人の太平洋拡散、ポリネシア三角形の完成)。20世紀の半ば、この問いには冷ややかな答えが有力だった。1947年、ノルウェーのヘイエルダールは筏で南米から東ポリネシアへ流れ着いてみせ、人々はアメリカ大陸から来たと主張した。1957年にはニュージーランドの研究者アンドルー・シャープが、星だけを頼りに何千キロも先の小さな島を狙って着くことは不可能で、島々への移住は嵐に流された舟の偶然の漂着だった、と論じた。
ハワイの人々にとって、それは祖先の物語を否定されることでもあった。伝承は、祖先がタヒチとハワイのあいだを行き来したと語る。だがハワイでは、計器を使わない遠洋の航海術はとうの昔に途絶えていた。アメリカの統治の下で、ハワイ語も、フラも、長く押さえつけられてきた。1970年代、ハワイの文化を取り戻そうとする動きが高まる中で、この問いは学問の争いを超えた意味を持つようになる。

1973年、人類学者のベン・フィニー、画家のハーブ・カネらがポリネシア航海協会を作った。古い記録と絵と伝承をもとに、昔の航海カヌーと同じ形の双胴船を作り、昔の方法でタヒチまで航海してみせる。それが漂流説への答えになる。1975年3月、長さ19メートルほどの双胴船が進水し、ホクレア号と名づけられた。ハワイの真上を通る星アークトゥルスのハワイ語の名で、「喜びの星」を意味する。
船はできたが、航海術を知る者がハワイにはいなかった。探し当てたのが、ミクロネシアのカロリン諸島の小さな島サタワルの航海者、マウ・ピアイルグだった。サタワルでは、星の出没の位置、うねりの向き、鳥や雲の様子から島の方角を読む技が、師から弟子へと口伝えで受け継がれていた。その技は一族の秘密で、外の者に教えるものではない。だがマウは、自分の島でも若者たちが関心を失い、技が消えかけていることを知っていた。教えることを引き受けた。

航海術では、地平線を星の出る位置と沈む位置で何十にも分け、目指す島の方角の星を順に追っていく。星の見えない昼や曇りの夜は、船体に当たるうねりの向きと揺れ方で進路を保つ。島が近づけば、夕方に陸へ帰っていく鳥や、島の上にかかる雲の色が手がかりになる。どれも、計器ではなく、体で覚えるしかない知識だった。
1976年5月1日、ホクレア号はマウイ島を出発した。乗組員は十数人で、ハワイの若者、研究者、記録係が乗った。海図も羅針盤も六分儀も使わず、マウが星とうねりを読んで舵を指示した。赤道無風帯で何日も風を待ち、食料と水を切り詰めた。船の上では、航海を学問の実験と見る研究者と、文化の誇りを取り戻す旅と見るハワイの若者とのあいだで、激しい対立もあった。

出発から34日目の6月4日、ホクレア号はタヒチのパペーテに着いた。港には1万7千人が集まって出迎えたと伝えられる。パペーテの人口の半分を超える数だった。ハワイとタヒチを結ぶ航海は、伝承の中では語られても、実際に行われたのは何百年ぶりのことだった。星とうねりだけで、4000キロ以上離れた島を狙って着けることが、身をもって示された。
マウは船の上の争いに嫌気がさし、帰りの航海を待たずにサタワルへ帰った。1978年の2度目の航海では、出発直後にホクレア号が転覆し、助けを求めて板で漕ぎ出したサーファーのエディ・アイカウが行方不明になった。それでも協会は航海を諦めなかった。ハワイの若者ナイノア・トンプソンは、戻ってきたマウに教えを請い、星の位置を自分なりに整理し直した。1980年、ナイノアは計器を使わずにハワイからタヒチへの往復を導いた。遠洋の航海術を身につけたハワイ人が、こうして何百年ぶりに現れた。
ホクレア号はその後、ニュージーランド、ラパヌイ(イースター島)、日本へと航海を重ね、2014年から3年をかけて世界を一周した。いまでは、ポリネシアの人々が東南アジアの島々から太平洋へ乗り出した拡散は、計画的な航海によるものだったという見方が広く受け入れられている(ラピタ土器の広がり、アオテアロアへの到達)。1976年の航海は、学問の論争への一つの答えであると同時に、太平洋の島々の人々が祖先の技を自分たちの手に取り戻すきっかけになった。マウ・ピアイルグはのちにハワイの若者たちに伝統の航海者の位を授け、2010年にサタワルで亡くなった。