人物

マンゴ・パーク

Mungo Park
AD1771年9月11日 – AD1806年(享年35・推定)
スコットランド重要度 3

概要

エディンバラで医学。1795年、アフリカ協会。一人でニジェールへ。1797年、帰った。『アフリカ内陸旅行記』。結婚して医者をして、退屈した。1805年、政府の金で40人。マラリアと赤痢で着く前に大半が死に、ブッサの急流で襲われて溺れた。

関わったできごと(1)

マンゴ・パークのニジェール川AD1796年7月20日 · 見た

本文

マンゴ・パークは、1771年9月11日、スコットランド南部の国境地帯、セルカークの近くのフォウルシールズの農家に、13人の子の7番目として生まれた。両親は息子を牧師にしたいと考えていたが、彼は医者の道を選び、エディンバラ大学で医学と植物学を学んだ。姉の夫で植物学者のジェームズ・ディクソンが、ロンドンの博物学者で王立協会の会長ジョゼフ・バンクス(ジョゼフ・バンクス)に彼を紹介したことが、運命を開いた。1792年、パークはバンクスの推薦で東インド会社の船の船医となり、スマトラまで航海して、そこで見つけた魚についての論文を書いた。

マンゴ・パークの肖像
マンゴ・パークの肖像Wikimedia Commons Mungo_Park_portrait.jpg : Unknown derivative work: Materialscientist · Public domain

18世紀の末、アフリカの内陸は、ヨーロッパの人々にとって地図の空白だった。とくに謎とされていたのが、西アフリカの内陸を流れるという大河ニジェールである。川はどちらへ流れ、どこに注ぐのか。ナイルにつながるのか、それとも内陸の湖や砂漠に消えるのか。バンクスらが作ったアフリカ協会は、この川を探らせるために探検家を送っていたが、いずれも戻らなかった。1795年、協会は24歳のパークを送ることにした。

パークはガンビア川をさかのぼり、河口から内陸に入ったところの交易所で土地の言葉を学び、熱病に苦しんだあと、1795年の12月、わずかな供を連れて東へ向かった。旅は苦難の連続だった。ムーア人の首長アリに捕らえられて4か月近く閉じ込められ、首長の妻たちは、彼の白い肌が生まれつきなのかを確かめようとしたという。脱出したときには、馬と衣服と羅針盤くらいしか残っていなかった。1796年7月、彼はセグーの町で、ついにニジェール川を目にした。川は、ゆったりと東へ流れていた(マンゴ・パークのニジェール川)。

アフリカマンディンゴ地方カマリアの風景、ムンゴ・パークの著書『Travels in the Interior Districts of Africa』より
アフリカマンディンゴ地方カマリアの風景、ムンゴ・パークの著書『Travels in the Interior Districts of Africa』よりWikimedia Commons Public domain

セグーの王に町に入ることを許されず、木の下で飢えと雨に震えていたとき、土地の女性が彼を家に招き入れ、魚を焼いて食べさせてくれた。女たちは糸を紡ぎながら、哀れな白い人が雨の中、木の下に座っていた、彼には乳を持ってきてくれる母も、穀物を挽いてくれる妻もいない、と即興で歌ったと、彼は旅行記に書き留めている。パークはさらに川を下ろうとしたが、病と飢えと盗賊に阻まれて引き返し、奴隷の商人の隊列に加わってガンビアに戻った。1797年の末、死んだものと思われていた彼は、イギリスに帰り着いた。

1799年に出版された『アフリカ内陸旅行記』は大評判になった。誇張の少ない率直な文章で、アフリカの人々の親切も残酷さも同じように書いたこの本は、多くの読者を得た。セグーの女性たちの歌は、デヴォンシャー公爵夫人が英語の詩にし、曲もつけられて広く歌われた。同じ年、パークは恩師の娘アリソン・アンダーソンと結婚し、スコットランドのピーブルズで町の医者になった。だが彼は、雨の中も馬で往診に回る平穏な暮らしに満足できなかった。アフリカで1年苦しむほうが、ここで一生医者をしているよりましだと語ったという。近くに住んでいた作家ウォルター・スコットとは親しい友だった。

パークは中央アフリカにおける最初のヨーロッパ人探検家の1人、そして、『Reisen in Central-Afrika – von Mungo Park bis auf バルト u. フォーゲル (1859) (Travels in Central-Africa – from Mungo Park to Dr. Barth and Dr. Vogel)』で最初に言及された探検家の1人
パークは中央アフリカにおける最初のヨーロッパ人探検家の1人、そして、『Reisen in Central-Afrika – von Mungo Park bis auf バルト u. フォーゲル (1859) (Travels in Central-Africa – from Mungo Park to Dr. Barth and Dr. Vogel)』で最初に言及された探検家の1人Wikimedia Commons Public domain

1805年、イギリス政府は、ニジェール川をたどる大がかりな遠征をパークに任せた。ニジェールの流れを押さえれば、西アフリカの内陸の交易を握れるという期待があった。パークは、軍の兵およそ40人を含む一行を率いて、4月にガンビアを出た。だが出発は遅れ、旅は雨季に重なった。マラリアと赤痢で兵士たちは次々に倒れ、8月にニジェールに着いたときには、ヨーロッパ人の生き残りは11人になっていた。サンサンディングで、パークは2艘の古いカヌーをつないで船を作り、ジョリバ号と名づけた。11月に出発するとき、残ったヨーロッパ人は彼を含めて5人だった。彼はイギリスの役人に宛てた最後の手紙で、たとえヨーロッパ人がみな死に、自分が半ば死んでいようとも、ニジェールの終わりを見つけるまでは進み続ける、と書いた。妻には、帰るころには春になっているだろうと書き送った。

それから一行の消息は絶えた。何が起きたのかは、のちに現地で調べられた話によってしか分からない。ジョリバ号は、トンブクトゥの近くを通り、何千キロも川を下った。行く先々で岸から襲われるのを恐れたパークは、船を止めずに、近づく者に銃を撃ちかけて進んだとされる。1806年のはじめ、いまのナイジェリアのブッサの急流で、船は岩の間に挟まり、岸から矢と槍の攻撃を受けた。逃れられないと悟ったパークと仲間たちは川に飛び込み、溺れて死んだという。途中で船を下りていた案内人の話を、のちに調べに送られた者が聞き出して伝えた。

パークの死から20年ほどのち、息子のトマスは、父が生きているかもしれないと信じて西アフリカに渡り、熱病で亡くなった。1830年、リチャード・ランダーとジョン・ランダーの兄弟がブッサから川を下り、ニジェール川が大きく南へ曲がって、ギニア湾に注いでいることを確かめた。パークが命をかけてたどろうとした流れの終わりは、こうして明らかになった。ブッサの急流は、20世紀にニジェール川に築かれたダムのカインジ湖の底に沈み、いまはもう無い。故郷のセルカークには、彼の記念碑が建っている。パークの旅行記は、のちのアフリカ探検家たち、たとえばデイヴィッド・リヴィングストンらにも読み継がれた。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1771年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →