カメハメハ1世
概要
西洋の武器を取り入れてハワイ諸島を統一した。その王国は、死後の1843年に英仏から独立国として承認される。
所属
ハワイ王国関わったできごと(1)
ハワイ王国の統一AD1810年 · 当人本文
カメハメハは、ハワイ島の北西部コハラの地で、首長の一族に生まれた。生年ははっきりせず、1758年ごろとされることが多いが、1730年代とする説から1760年ごろとする説まで幅がある。ハレー彗星が見えた年に生まれたという伝承が、1758年説の根拠の一つになっている。ポリネシアの航海者たちがこの島々にたどり着いて(ハワイへの到達)からおよそ700年、島々はそれぞれの島や地方の首長たちが争う時代だった。

伝承によれば、生まれる前、島々を統べる者が生まれるという予言があった。それを恐れたハワイ島の支配者アラパイは、生まれた子を殺すよう命じた。赤ん坊はひそかに連れ出され、ワイピオの谷で隠されて育ったという。のちにカメハメハは、叔父でハワイ島の支配者となったカラニオープウのもとに引き取られ、戦士として鍛えられた。「カメハメハ」は「孤独な者」という意味だといわれる。
1778年から79年にかけて、イギリスのジェームズ・クックの船がハワイ諸島に現れた(クックの太平洋航海)。若いカメハメハは叔父に従ってクックの船に乗り込み、一夜を過ごしたと記録されている。クックはその後、ハワイ島のケアラケクア湾で島の人々と衝突して殺された。船の乗組員の記録には、カメハメハの名が見える。西洋の船、鉄、大砲、銃を間近に見たことは、彼のその後を大きく変えた。

1782年、カラニオープウが死ぬと、その子キワラオが跡を継ぎ、カメハメハは軍神クーカイリモクの像を守る役を託された。まもなく両者は戦い、キワラオは討たれた。だがハワイ島の統一にはなお10年近くかかった。最後の敵だった従兄弟のケオウアは、1791年、カメハメハが建てたプウコホラの神殿に招かれ、その奉献の場で殺された。
カメハメハは、西洋の武器を早くから取り入れた。交易船から大砲と銃を買い入れ、1790年には、捕らえたイギリス人の船員ジョン・ヤングとアイザック・デイヴィスを、殺さずに助言者として抱えた。二人は大砲の扱いを教え、のちに首長の位を与えられて島に住みついた。1790年、マウイ島のイアオ渓谷の戦いで、カメハメハは大砲を使って敵を破った。
1795年、カメハメハは千隻ともいわれるカヌーの大船団を率いて、マウイ島とモロカイ島を押さえ、オアフ島に上陸した。ヌウアヌの谷を追い上げられたオアフの軍は、谷の奥の断崖に追い詰められ、多くの兵が崖から落ちて死んだ。最後に残ったカウアイ島へは、二度攻め込もうとしたが、一度は嵐で船団が引き返し、二度目は兵のあいだに疫病が広がって果たせなかった。1810年、カウアイの王カウムアリイは、戦わずにカメハメハに従うことを認めた。こうしてハワイ諸島は一つの王国になった(ハワイ王国の統一)。

統一の前後に定めたのが、「マーマラホエの法」(割れた櫂の法)である。老人も女も子どもも、道端で横になって安心して眠れるようにせよ、という内容だった。若いころ、カメハメハは小さな襲撃で浜辺の漁民たちを追ううち、足が岩の割れ目にはさまって動けなくなり、漁民の一人に櫂で頭を殴られた。櫂は割れ、カメハメハは命からがら逃げた。何年もたって王となったカメハメハの前に、その漁民が引き出された。王は罰する代わりに、悪かったのは無力な民を襲った自分だと言って漁民を赦し、土地を与えたと伝えられる。この法は、いまもハワイ州の憲法に、弱い者の安全を守る原則として書き込まれている。
統一したあとのカメハメハは、王国を手堅く治めた。島ごとに信頼できる総督を置き、首長たちの勝手な争いを禁じた。ハワイの古い宗教の掟であるカプ(禁忌)の制度は、そのまま守った。西洋の船が寄港するようになると、香木の白檀の取引を王が独占し、船や武器を買い入れた。イギリスの探検家ヴァンクーヴァーとは親しく交わり、イギリスの保護を求めるような取り決めも交わしたが、王国の独立は保たれた。

1819年5月8日、カメハメハはハワイ島のカイルア・コナで死んだ。60歳前後だったとされる。遺骨は古い習わしに従ってひそかに隠され、その場所はいまも分かっていない。その死から半年ほどで、息子のカメハメハ2世と、王の妃の一人だったカアフマヌは、カプの制度を廃止した。以後、王国は西洋の宣教師と商人を迎え入れ、1840年代にはイギリスやフランスから独立国として正式に認められる(ハワイ王国)。
カメハメハの築いた王国は、1893年にアメリカ人の勢力によって女王リリウオカラニが退位を迫られるまで続いた(ハワイ王国の転覆)。毎年6月11日はカメハメハの日としてハワイの祝日になっており、レイを掛けられた王の像が、いまもホノルルとコハラに立っている。