マゼラン
概要
世界一周の航海を率いたが、本人はフィリピンで戦死した。船は西へ回り続けて帰り着く。
関わったできごと(3)
マゼランの太平洋横断AD1521年 · 当人世界一周の達成AD1522年 · 船団を率いた(本人は途上で戦死)エルカーノの世界周航の完成AD1522年9月6日 · 途中で死んだ本文
1480年頃、ポルトガル北部の小貴族の家に生まれた。ポルトガル語ではフェルナン・デ・マガリャンイス。生まれた町はサブローザとも、ポルトとも言われ、はっきりしない。少年の頃、王妃に仕える小姓として宮廷に上がった。その頃のリスボンは、海の向こうから届く知らせで沸き立っていた。1492年にはコロンブスの到達、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがアフリカの南端を回ってインドに着いた。

1505年、20代半ばのマゼランは、インドへ向かう大艦隊に一兵士として加わった。それから8年ほど、彼はアジアの海で戦い続けた。インド西岸のディウの沖でイスラームの連合艦隊を破った海戦に加わり、1511年には東南アジアの交易の要マラッカの攻略にも参加した。このマラッカで、マレー人の奴隷を買っている。のちにエンリケと呼ばれ、航海の通訳として欠かせない存在になる男である。親友のセランはさらに東の香料諸島(モルッカ諸島)まで行ってそこに住みつき、香辛料の島々の豊かさを書いた手紙をマゼランに送ってきた。
ポルトガルに戻ったマゼランは、北アフリカのモロッコでの戦いで足に傷を負い、生涯、足を引きずるようになった。さらに、敵と取引をしたという疑いをかけられた。疑いは晴れたが、国王マヌエル1世は彼の働きに報いようとせず、俸給の引き上げも、新たな航海の願いも退けた。
マゼランには一つの考えがあった。香料諸島は、地球の反対側で、スペインの取り分に入っているのではないか。1494年のトルデシリャス条約で、スペインとポルトガルは大西洋に線を引き、世界を東西に分け合っていた。だが、その線を地球の裏側まで延ばしたとき、どこを通るのかは、経度を測る技術の無い当時、誰にも分からなかった。アメリカ大陸の南を回って西へ進めば、ポルトガルの海を通らずに香料諸島へ行けるはずだ。1517年、マゼランは祖国を捨ててスペインへ渡り、若い国王カルロス1世(のちの皇帝カール5世)に計画を売り込んで、承認を得た。目的は世界一周ではなく、西回りで香料諸島にたどり着くことだった。

1519年9月、5隻の船と240人あまりの乗組員が、スペイン南部の港を出た。船長たちの多くはスペイン人で、ポルトガル人の司令官に従う気は薄かった。ポルトガル王は計画を妨害しようと手を回していた。南米の東岸を南へ下り、大陸を抜ける海峡を探したが、見つからない。南半球の冬が来て、船団はパタゴニアの入り江で越冬することにした。
1520年4月、復活祭の夜、スペイン人の船長たちが反乱を起こした。マゼランは素早く動き、反乱側の船長の一人を襲わせて殺し、もう一人を裁いて処刑した。首謀者の残る一人と司祭は、船団が去るときにその荒れ地に置き去りにされた。その後、偵察に出た1隻が座礁して失われた。

10月、船団はついに大陸の南端近くで、西へ通じる入り組んだ海峡に入った。のちにマゼラン海峡と呼ばれる。抜けるのに1か月以上かかり、その間に1隻が密かに引き返してスペインへ帰ってしまった。11月末、残る3隻は広い海へ出た。思いのほか穏やかだったので、マゼランはこの海を「平和な海(太平洋)」と名付けた。
だが、その海は想像をはるかに超えて広かった。3か月以上、ほとんど陸を見ないまま進んだ(マゼランの太平洋横断)。乗組員だったイタリア人ピガフェッタの記録によれば、ビスケットは虫に食われて粉になり、ネズミの尿で汚れていた。人々は帆桁に巻いた牛の皮を海水で柔らかくして焼いて食べ、おがくずまで口にした。多くの者が壊血病で歯ぐきを腫らして死んだ。1521年3月、グアム島に着き、やがてフィリピン諸島に至った。
ここで、通訳のエンリケが、島の人々の言葉を理解できることが分かった。マゼランは、かつて東回りでたどり着いたアジアの海の近くに、いま西から来たことを知った。彼が東回りでマラッカに着いたのは十年前のことである。セブ島の首長フマボンは友好的で、数百人の島民とともにキリスト教の洗礼を受けた。マゼランは、改宗した首長を助け、従わない近くの首長たちを服従させようとした。
その一人が、隣のマクタン島の首長ラプ=ラプだった。1521年4月27日、マゼランは60人ほどの部下を率いてマクタン島を攻めた。浅瀬のため船を岸に寄せられず、男たちは腰まで水につかって上陸した。待ち構えていた千人を超える島民に囲まれ、マゼランは足に矢を受け、槍と刀で討たれた。ピガフェッタは、司令官が最後まで部下を逃がそうとして踏みとどまったと書いている。
マゼランの死後、セブの首長は態度を変え、宴に招いた船の幹部たちを殺した。人数の減った一行は1隻を焼き捨て、残る2隻で香料諸島にたどり着いて香辛料を積んだ。1隻は東へ戻ろうとしてポルトガル人に捕らえられた。最後の1隻ヴィクトリア号は、スペイン人のエルカーノに率いられて、インド洋を渡り、アフリカの南端を回った(エルカーノの世界周航の完成)。1522年9月、スペインに帰り着いたのは、出発時の240人あまりのうち、わずか18人だった(世界一周の達成)。彼らは、自分たちの日誌の日付が、陸の暦より1日遅れていることに気づいた。西へ回り続けたことで、1日を失っていたのである。

マゼラン自身は世界を一周しなかった。だが、東回りで以前にマラッカまで行っていた彼は、それよりさらに東のフィリピンまで達したことで、地球をほぼ一周したことになる。地球を本当に一周した最初の人は、彼に連れられて故郷に近い海へ戻ったエンリケだったかもしれない、と言われることもある。フィリピンでは、侵略者を退けたラプ=ラプが最初の英雄として讃えられ、マクタン島には彼の像が立っている。