概要
1875年6月28日、明治政府は、人を悪く言い立てることを罰する讒謗律と、新聞と雑誌を取り締まる新聞紙条例を定めた。自由民権運動の高まりのなかで、新聞は政府の役人を激しく批判していた。条例は、政府を倒すことや法を守らないことをそそのかす記事を罰し、社主や編集の責任者を定めさせた。一年足らずのうちに、多くの記者が牢に入れられ、罰金を科された。新聞は、記者が捕まったときに代わりに牢に入る「身代わりの編集長」を置いて対抗した。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
明治の初め、政府は新聞を、文明開化を広める道具として後押ししていた。役所が新聞を買い上げて配り、新聞を読むための会も開かれた。ところが1874年、板垣退助らが民撰議院の設立を求める建白書を出し、それが新聞に載ると、新聞は政府の専制を批判する場になった。役人の不正や、薩摩と長州の出身者が政府を握ることへの非難が、紙面を埋めた。
1875年6月28日、政府は二つの法を定めた。讒謗律は、事実かどうかを問わず、人の名誉を傷つける言葉を罰する。天皇や皇族、役人への誹りは、特に重く罰せられた。新聞紙条例は、新聞を出すには届け出が要ること、持ち主と編集の責任者と印刷者の名を示すこと、政府を倒すことや法律を守らないことをそそのかす記事を載せれば罰することを定めた。記事の筆者の名を載せることも求めた。
効き目はすぐに表れた。1年足らずのうちに、数十人の記者や編集者が、罰金や禁錮を受けた。成島柳北や末広鉄腸といった名のある記者も牢に入った。新聞社は、実際の編集長の代わりに罰を受ける「身代わり」の署名人を置き、牢から出てきた記者を英雄のように迎えた。
新聞紙条例は、その後も何度も改められ、政府は必要なときに新聞の発行を止める力を持ち続けた。1909年には新聞紙法に引き継がれ、戦時中の厳しい統制へとつながっていく。報道の自由が憲法で保障されるのは、戦後の日本国憲法を待たなければならなかった。