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Event / できごと

大津事件

Ōtsu incident
AD1891年5月11日
重要度 3
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)日本安南朝鮮王朝フィリピンフランス領インドシナAD1891年5月11日大津(近江大津宮)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1891年5月11日の版図を描いています(11勢力)。

概要

1891年5月11日、日本を訪れていたロシアの皇太子ニコライが、琵琶湖からの帰り道、大津の町で、警備の巡査津田三蔵にサーベルで斬りつけられ、頭に傷を負った。大国ロシアの報復を恐れた政府は、皇族に危害を加えた罪を当てはめて津田を死刑にするよう、裁判所に強く迫った。だが大審院長の児島惟謙は、その罪は日本の皇族に対するものだとして退け、判事たちを説いた。津田は普通の殺人未遂として無期徒刑になった。政府の圧力から司法の独立を守った事件として語られるが、児島が担当の判事に働きかけたこと自体も、裁判への干渉だったという見方がある。

場所

大津(近江大津宮)
35.02°N 135.86°E · 滋賀県

本文

1891年春、ロシアの皇太子ニコライが、シベリア鉄道の起工式に向かう途中、軍艦で日本を訪れた(シベリア鉄道の開通)。日本の政府は、大国ロシアの皇太子を国を挙げてもてなした。5月11日、ニコライは京都から琵琶湖へ遊びに出かけ、その帰り道、人力車で大津の町を通っていた。

そのとき、沿道を警備していた滋賀県の巡査、津田三蔵が、いきなりサーベルを抜いてニコライの頭に斬りつけた。傷は浅かったが、ニコライは血を流して逃げ、車夫たちが津田を取り押さえた。津田は、ロシアが日本を狙っていると思い込んでいたとも、皇太子の来日を偵察と疑ったとも言われる。

日本中が震え上がった。明治天皇は自ら京都へ見舞いに出向き、謝罪の手紙と電報がロシアの側に殺到した。京都府庁の前で、謝罪のために命を絶った女性もいた。政府は、ロシアの怒りを鎮めるため、津田を死刑にしなければならないと考えた。だが当時の刑法では、人を殺しかけただけの罪に死刑は無い。そこで政府は、天皇や皇族に危害を加えた者を死刑とする「大逆」の罪を当てはめるよう、裁判所に迫った。

大審院長の児島惟謙は、この罪は日本の皇族を守るためのもので、外国の皇族には当てはまらないとして、政府の要求を拒んだ。そして、事件を担当する判事たちに会い、法に従って裁くよう説いた。5月27日、大審院は、津田を普通の殺人未遂の罪で無期徒刑とした。外務大臣の青木周蔵らは責任を取って辞めた。

この事件は、大日本帝国憲法の発布ができて間もない日本で、司法が政府の圧力に屈せず、法の筋を通した例として語られてきた。ロシアも判決を受け入れ、恐れられた報復は無かった。ただ、児島が個々の判事に働きかけたことは、裁判官一人ひとりの独立を侵したともいえ、評価は分かれている。ニコライは3年後に皇帝ニコライ2世となり、日露戦争を戦うことになる。

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