人物

大隈重信

Okuma Shigenobu
1838年 – 1922年(享年84・推定)
日本重要度 4

概要

早期の国会開設を求めて政府を追われ、政党を作って対抗した。早稲田を創立する。

所属

日本

関わったできごと(1)

第一回帝国議会1890年11月29日(明治23年11月29日) · 議会側

本文

大隈重信は1838年、肥前佐賀藩の、砲術を家業とする藩士の家に生まれた。佐賀藩は、藩主鍋島直正のもとで反射炉を築いて大砲を作るなど、西洋の技術の導入に熱心な藩だった。大隈は藩校の弘道館で学んだが、儒学の型にはめる教育に反発し、騒動を起こして退学させられた。その後、蘭学を学び、長崎でオランダ系アメリカ人の宣教師フルベッキから英語や、アメリカの憲法、聖書を学んだ。藩が長崎に開いた英学の塾では、自ら運営にあたっている。

大隈重信の肖像
大隈重信の肖像Wikimedia Commons Photographer working for the government of Japan · Public domain

維新の後、長崎で外国との事務にあたっていた大隈は、新政府に引き抜かれた。最初の大きな仕事は、長崎の浦上のキリシタンを政府が流罪にした問題で、強く抗議するイギリス公使パークスとの談判だった。物おじしない応対が認められ、やがて財政の担当に回される。1873年からは参議と大蔵卿を兼ね、地租改正や、武士の家禄を打ち切る秩禄処分など、明治政府の土台となる財政の仕組みを担った。佐賀藩は薩長土肥と並び称されたが、政府の中では薩長の出身者が強く、大隈は傍流の実力者という立場だった。

1881年、国会をいつ開き、どのような憲法を作るかが政府内の争点になると、大隈は意見書を出した。2年後には選挙を行って国会を開き、イギリスのように議会の多数党が内閣を作る政党政治にする、という急進的な案だった。他の参議に相談せず、天皇に直接出したことも反発を招いた。同じ頃、北海道開拓使の官有物を、薩摩出身の黒田清隆が同郷の商人に格安で払い下げようとしている問題が新聞で暴かれ(北海道開拓使)、世論が沸騰していた。政府の中では、大隈が福沢諭吉の門下の人々や三菱と組んで、この騒ぎを裏で煽っていると疑われた。10月、大隈は参議を罷免され、大隈に近い官僚たちも一斉に辞めた(明治十四年の政変)。同時に、政府は9年後の1890年に国会を開くと約束する詔を出した。

佐賀藩士時代の大隈
佐賀藩士時代の大隈Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

政府を追われた大隈は、翌1882年、イギリス流の穏やかな立憲政治を掲げて立憲改進党を作った。板垣退助の自由党と並ぶ、初期の二大政党の一つである。同じ年の10月、東京の早稲田に東京専門学校を開いた。官の学校とは別に、自分の国のことを自分で考えられる人を育てる、という趣旨で、政府から独立した学問を掲げた。のちの早稲田大学である。政党と学校をほぼ同時に作ったことになる。政府は、反政府の政治家を育てる学校と見て、警戒し続けた。

政府は、追い出した大隈の力を借りなければならなくなる。不平等条約の改正が行き詰まると、1888年、伊藤博文の内閣に外務大臣として迎えられた。大隈は国ごとに交渉を進めて改正の一歩手前まで持っていったが、外国人が被告となる裁判に外国人の裁判官を加えるという条件がイギリスの新聞で報じられると、国の主権を損なうとして反対の声が高まった。1889年10月、外務省から帰る途中、国家主義団体玄洋社の来島恒喜に爆弾を投げつけられ、右脚を失った。来島はその場で自害している。交渉は打ち切られ、内閣も倒れた。大隈は後年、自分を襲った来島の勇気をたたえ、その法要に人を送ったと伝えられる。

長崎時代の大隈重信(前列中央)。左端は伊藤博文、右端は井上馨。後列左より久世治作、中井弘。撮影・内田九一
長崎時代の大隈重信(前列中央)。左端は伊藤博文、右端は井上馨。後列左より久世治作、中井弘。撮影・内田九一Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1898年、大隈は板垣退助と組んで憲政党を作り、首相となった。陸海軍の大臣以外の閣僚をすべて政党員で固めた、日本で最初の政党内閣で、二人の名を取って隈板内閣と呼ばれる。しかし、旧自由党系と旧改進党系の対立から、わずか4か月で崩れた。1907年にはいったん政界を退き、早稲田大学の総長になった。

1914年、76歳で再び首相となる。演説がうまく、各地を回って選挙に臨み、列車の窓からも演説したと言われ、国民の人気は高かった。在任中に第一次世界大戦が始まり、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦して、中国の青島などを攻め取った。翌1915年には中国に二十一か条の要求を突きつけ、最後通牒をもって大部分を受け入れさせた。この要求は中国の強い反日感情を生み、国際的にも日本への不信を広げた。1916年、首相を辞した。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

大隈は、人間は本来125歳まで生きられる、という説を唱え、節制すればそこまで生きられると語っていた。しかし1922年1月10日、83歳で死んだ。日比谷公園で「国民葬」が営まれ、数十万の人々が集まったとされる。翌月に死んだ山県有朋の国葬の寂しさと、しばしば比べて語られた。片脚を失いながらも、葉巻を好み、明るく、大言壮語で人を引きつけた人物だったと伝えられる。

政府の外から政党と学校を作り、それでも政府の頂点に二度立った。政党政治を最も早く唱えた一人が、最後の内閣で対華二十一か条要求を出したことも、その経歴の一部である。早稲田大学は、創立者として大隈の銅像を構内に置いている。

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