概要
幕府の開成所で翻訳の仕事をしていた前島来輔(のちの前島密)は、慶応2年の暮れ、将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之議」を差し出した。国を強くするには国民の教育を広めなければならないが、何千もの漢字を覚えるのに子どもは長い年月を費やし、肝心の知識を学ぶ暇がない。西洋のように、音を表す文字だけで教えるべきだと説き、仮名で書くことを提案した。建白は取り上げられなかったが、前島は明治になって郵便の制度を作り、仮名の新聞も出した。漢字を減らし、あるいはやめようという議論は、ここから戦後まで繰り返されることになる。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
本文
幕末の日本では、知識人の多くが漢文の素養を身につけていた。学問の言葉は漢文で、公の文書も漢字の多い文体で書かれた。漢字を数千字覚え、漢文を読みこなせるようになるには、長い年月がかかった。読み書きは、武士や裕福な町人の子どもの特権に近かった。
前島来輔は、1835年、越後の豪農の家に生まれた。江戸で蘭学と英学を学び、長崎でアメリカ人の宣教師から英語を習った。そのとき、アメリカ人の宣教師から、漢字を学ぶ手間が教育を遅らせているのではないかと問われ、文字のあり方を考えるようになったという。
慶応2年12月、幕府の開成所で翻訳にあたっていた前島は、将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之議」と題する建白書を出した。国家の大本は国民の教育にあり、教育は士民の別なく国民に広く及ぼすべきである。そのためには、できるだけ簡単な文字と文章を使わなければならない。漢字を学ぶのに、子どもたちは人生の最も貴い時期を費やしてしまい、肝心の事物の道理を学ぶ暇がない。だから西洋の諸国のように、音を表す文字を使い、漢字をやめるべきだ。前島は仮名を使うことを提案した。建白書そのものは、漢字を使わずに書くと読んでもらえないので、漢字交じりで書かれていた。
建白は取り上げられず、ほどなく幕府は倒れた。前島は明治の新政府に仕え、1871年、飛脚に代わる郵便の制度を作り、「郵便」「切手」「葉書」という言葉を決めた。のちに「日本の郵便の父」と呼ばれる。漢字を減らす考えも捨てず、仮名だけで書いた新聞を出した。
漢字をどうするかの議論は、明治以後も続いた。仮名だけで書こうとする人々は「かなのくわい」を作り、ローマ字で書こうとする人々は「羅馬字会」を作った。文部大臣になった森有礼は、英語を国語にすることさえ考えた。1946年の当用漢字表で、漢字の数を絞ることが国の方針になった(当用漢字と現代かなづかい)。漢字をやめるところまでは行かなかったが、前島の建白は、日本の文字を教育の道具として問い直した最初の声として記憶されている。