福沢諭吉
概要
幕府の使節として欧米を見て回り、『学問のすゝめ』で新しい世の考え方を広めた。
所属
日本関わったできごと(1)
『学問のすゝめ』1872年 · 著者本文
福沢諭吉は1835年、大坂の堂島にあった豊前中津藩の蔵屋敷で生まれた。父の百助は、藩の年貢米を売りさばく役目で大坂に詰めていた下級の藩士である。漢学に優れた学者肌の人だったが、身分が低いために才を生かす機会は無く、諭吉が1歳半のときに死んだ。後年、諭吉は自伝の中で、父の生涯を思うと、門閥制度は親の敵で御座る、と書いている。

父の死後、一家は中津に戻った。上士と下士の身分の差がはっきりしている城下町で、諭吉は、子どもの遊びの中でさえ上士の子に言葉づかいを改めなければならない窮屈さを味わった。少年の頃から理屈で物事を確かめる性格で、藩主の名が書かれた紙を踏んでみて罰が当たらないことを確かめ、神社の御神体の石をこっそり別の石に取り替えて、人々がそれを拝むのを見て笑っていた、という話が自伝にある。学問を始めたのは14、5歳と遅かったが、漢籍を読み込んで、すぐに頭角を現した。
1854年、黒船来航の翌年、兄の勧めで長崎に出て、蘭学を学び始めた。翌年には大坂の緒方洪庵の適塾に入る。塾生たちは、一冊しかないオランダ語の辞書を奪い合い、昼も夜も原書を読み、着物を脱いだまま薬の調合や化学の実験に熱中した。諭吉はやがて塾頭になった。1858年、藩の命で江戸に出て、築地の藩の屋敷で蘭学の塾を開いた。これがのちの慶應義塾の始まりである。

翌1859年、開港したばかりの横浜を見物に行った諭吉は、店の看板も外国人の言葉も、一つも読めないことに愕然とした(横浜開港)。そこで使われていたのはオランダ語ではなく英語だった。何年もかけて身につけたオランダ語が役に立たないと知った諭吉は、その日から英語の独学を始めた。
1860年、幕府の使節がアメリカへ渡るとき、諭吉は軍艦奉行木村喜毅の従者として、護衛の咸臨丸に乗り込んだ。サンフランシスコで、諭吉は、電信や工場には驚かなかった。それは本で読んで知っていたからである。驚いたのは社会の仕組みのほうだった。初代大統領ワシントンの子孫は今どうしているかと尋ねると、誰も知らず、関心も無い様子だった。日本で言えば徳川家康の子孫を知らないようなものだ、と諭吉は衝撃を受けている。1862年には幕府の使節に通訳として加わってヨーロッパを1年かけて回り、1867年にも再びアメリカへ渡った。

三度の洋行で、諭吉は病院の運営費はどこから出るのか、銀行はどう金を回すのか、選挙とは何をするのか、政党同士はなぜ争いながら国を壊さないのか、といったことを、行く先々で尋ねては書き留めた。それをもとに1866年から出版した『西洋事情』は、西洋の制度を日本語で分かりやすく紹介した本として、たちまち広く読まれた。
1868年、塾は慶應義塾と名を改めた。その年の5月、上野で新政府軍と旧幕府方の彰義隊が戦ったとき、諭吉は大砲の音が聞こえるなかで、いつもどおりアメリカの経済学の教科書の講義を続けたと伝えられる。新政府からは何度も出仕を求められたが、諭吉は一度も官職に就かなかった。学者は政府の外にいて、独立した立場から物を言うべきだと考えたからである。

1872年、『学問のすゝめ』の初編が出た(『学問のすゝめ』)。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり」という一文で始まる。人は生まれながらに平等だと言われているが、現実には賢い人と愚かな人、豊かな人と貧しい人がいる。その差は学ぶか学ばないかによって生まれる。だから学問をせよ。ここでいう学問は、難しい古典を読むことではなく、読み書きや計算、地理や経済など、暮らしに役立つ実学だった。一身独立して一国独立す、という言葉も、この本にある。全17編は合わせて300万部以上売れたといわれ、当時の日本の人口がおよそ3500万人だったことを思えば、驚くべき数である。1875年には、文明とは何かを論じた『文明論之概略』を著した。
1882年、諭吉は新聞『時事新報』を創刊し、政治や外交について論じ続けた。朝鮮の改革派の金玉均らを支援したが、彼らが1884年に起こしたクーデタが清の介入で失敗すると、諭吉の朝鮮観は厳しくなった。1885年に『時事新報』に載った無署名の社説「脱亜論」は、日本はアジアの隣国との付き合いを謝絶し、西洋の文明国と進退をともにすべきだと論じた。諭吉自身が書いたものとされることが多いが、異論もある。いずれにせよ、のちの日清戦争を「文明と野蛮の戦い」として強く支持したことも含めて、そのアジアへのまなざしは今も批判の的になっている。

晩年、諭吉は口述で自伝『福翁自伝』をまとめた。生き生きとした語り口で、少年時代から維新までの体験を語ったこの本は、今も広く読まれている。1898年に脳出血で倒れ、1901年2月3日、66歳で死んだ。1984年から2024年まで、一万円札の肖像を務めた。その後を継いだのは、同じく官に頼らず民の力を説いた渋沢栄一である。身分に縛られた下級武士の子が、自分の力で学び、学ぶことで人は独立できると説いた。その主張は、新しい時代を生きようとする人々に、何よりも分かりやすい道を示した。