できごと

午砲

Noon gun of Tokyo
AD1871年(明治4年)9月9日
重要度 3
ロシア帝国大英帝国清スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本安南朝鮮王朝フィリピンカンボジアAD1871年(明治4年)9月9日東京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1871年(明治4年)9月9日の版図を描いています(11勢力)。

概要

江戸の町は、寺の鐘が打つ時刻で暮らしていた。昼と夜をそれぞれ六つに分けるので、一刻の長さは季節で変わる。明治政府は、西洋の時刻に合わせた合図を必要とした。旧江戸城の本丸で、毎日正午に大砲の空砲を一発撃つ。その音は町じゅうに響き、人々は「ドン」と呼んで、昼飯の合図にした。役所も学校も工場も、この音で時計を合わせた。やがて各地の都市でも撃たれるようになる。空砲の費用がかさみ、1929年にサイレンに替わるまで、ドンは半世紀以上、東京の正午を告げた。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

本文

江戸の町は、鐘の音で時刻を知っていた。日本橋の本石町をはじめ、上野の寛永寺、浅草、芝、市ヶ谷などに時の鐘が置かれ、決まった時刻に撞かれた。鐘の音が届く範囲の町々は、その費用として鐘撞きの料を納めた。人々は鐘の数を聞いて、明け六つ、暮れ六つ、といった時刻を知った。

その時刻の数え方は、いまとは違っていた。日の出と日の入りを境に昼と夜を分け、それぞれを六つに等分する。だから一刻の長さは季節によって伸び縮みする。夏の昼の一刻は長く、冬の昼の一刻は短い。不定時法と呼ばれるこの数え方は、日が昇れば起きて働き、沈めば休む暮らしにはよく合っていた。江戸の職人たちは、この伸び縮みに合わせて針の進みを変える、精巧な和時計まで作っていた。

明治になると、それでは合わなくなった。政府の役所は西洋式の時刻で動き始め、外国の公使や商人が町に住み、やがて鉄道が走ろうとしていた。季節によって長さの変わる時刻では、外国の暦や時刻表と合わせられない。政府は1872年の末に暦を改めて太陽暦を採り(太陽暦の採用)、同時に一日を24の等しい時間に分ける定時法に切り替えた。では、その新しい時刻を、時計を持たない大勢の人々にどう知らせるか。

太陽暦の採用に関わる図版:Reforma Gregoriana del Calendario Juliano
太陽暦の採用Wikimedia Commons Aloysius Lilius · Public domain

その前の年、1871年(明治4年)9月9日、旧江戸城の本丸に大砲が据えられた。毎日正午に、空砲を一発撃つ。号砲の音は町じゅうに響き渡り、人々はそれを「ドン」と呼んだ。ドンが鳴ったから昼飯にしよう、というのが東京の暮らしの合図になった。懐中時計や掛け時計を持つ人は、その音で針を合わせた。役所も、学校も、工場も、そして町の時計屋も、ドンを基準にした。

正午をどうやって知ったのか。大砲を撃つ側は、天文の観測で正午を確かめ、のちには東京の天文台から送られてくる正午の信号に合わせて撃つようになった。正確な時刻を持つ場所から、音で町じゅうに時刻を配る。それが午砲の役目だった。

大阪城の午砲(どん)。廃止直前の様子(1922年9月)。
大阪城の午砲(どん)。廃止直前の様子(1922年9月)。Wikimedia Commons 大正通信社、東京 (Taishō Tsūsinsha, Tokyo) · Public domain

午砲は、各地の町にも広がった。大阪をはじめ、明治から大正にかけて全国の多くの都市で正午の号砲が撃たれるようになった。陸軍の部隊がいる町では軍が、そうでない町では市などが受け持った。遠くの町の正午を東京の正午にそろえるため、電信で時刻の信号が送られた。1888年には、兵庫県明石を通る東経135度の子午線の時刻が、日本の標準時になった。それまで町ごとに太陽に合わせていた正午が、国じゅうで一つになったのである。

音には弱点もあった。音は空気の中を1秒に340メートルほどしか進まないので、大砲から離れた場所では、音が届くまでに何秒も遅れる。数キロ離れれば10秒を超える。一秒を争う天文台の時計や船の時計を合わせるには、ロンドンのグリニッジで使われた、目に見える合図の報時球(報時球)のほうが向いていた。だが、町の人々が昼飯の時刻を知り、時計の大まかな狂いを直すには、ドンで十分だった。

東京の午砲に使用された大砲は、現在江戸東京たてもの園で保存展示されている。
東京の午砲に使用された大砲は、現在江戸東京たてもの園で保存展示されている。Wikimedia Commons Kentaro Ohno · CC BY 2.0

空砲を毎日撃つには、火薬の費用がかかる。大砲の手入れも、撃つ人手も要る。1929年(昭和4年)、東京の午砲はサイレンに替わった。明治の初めから、半世紀あまりも東京の正午を告げ続けたことになる。そのころには、すでにラジオの放送が始まっていて、家の中で時報を聞けるようになっていた(ラジオの時報)。外の音を待たなくても、正確な時刻が手に入る時代が来ていた。

いまでも、昔を知る人の言葉や小説には「お昼のドン」が出てくる。東京以外の町でも、午砲の跡や記念碑が残っているところがある。正午のサイレンやチャイムを流す町も、各地に残っている。

鐘から大砲へ。時刻を告げる音は替わったが、時刻を告げるのが町を治める側だということは変わらなかった。かつて寺が撞いていた時刻を、明治の東京では軍が撃つようになった。そして、時刻そのものも、太陽の動きに合わせて伸び縮みするものから、国が定める等しい長さのものへと変わった。ドンの音は、その切り替わりの時代の、町の正午の音だった。

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