概要
明治のはじめ、日本の言葉は地方ごとにまったく違い、薩摩の人と津軽の人では話が通じなかった。書き言葉も、漢文訓読体、候文、和文と分かれていた。1894年、ドイツで言語学を学んで帰国した上田万年は、日清戦争のさなか、「国語と国家と」と題する講演で、国の言葉は国民の精神の血であると説いた。1900年、小学校の教科として「国語」が生まれ、1902年には国の機関が東京の教養ある人々の話し言葉をもとに標準語を定めることを方針にした。教科書を通じて標準語は全国に広がったが、学校で方言を話した子どもに罰の札を下げさせる地域もあった。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
江戸時代の日本は、藩ごとに分かれ、人の行き来も限られていたため、話し言葉は地方ごとに大きく違った。明治になって全国から人が集まるようになると、言葉が通じないことが問題になった。軍隊では、各地から集められた兵士どうしで命令が通じないこともあった。書き言葉も、漢文を読み下した文体、手紙に使う候文、和文と、いくつもの文体が並び立ち、話し言葉とはかけ離れていた。
上田万年は、1867年、江戸に生まれた。帝国大学で言語学を学んだのち、1890年からドイツとフランスに留学し、近代の言語学と、国の言葉を整えようとするヨーロッパの国々のやり方を学んだ。1894年に帰国した上田は、その年の10月、日清戦争のさなかに、「国語と国家と」と題する講演を行った。上田は、言葉はその国の人々の精神の血液であり、日本語は日本人の精神を宿すものだと説いた。国を一つにまとめるには、国の言葉、すなわち「国語」を整えなければならない。
上田の主張は、教育の制度に取り入れられた。1900年、小学校の令が改められ、それまで「読書」「作文」「習字」に分かれていた科目は、一つの「国語」にまとめられた。1902年、上田が中心になって作られた国語調査委員会は、方針の一つとして、方言を調べたうえで標準語を定めることを掲げた。標準語のもとには、東京の山の手の教養ある人々の話し言葉が選ばれた。1904年から、国が作った教科書が全国の小学校で使われるようになり、標準語は教科書を通じて全国の子どもたちに教えられた。
標準語の普及は、全国の人々が言葉を通じ合わせ、言文一致の文章(言文一致)を書き、新聞やラジオを分かち合う土台になった。一方で、方言は「正しくない言葉」として退けられた。沖縄や東北などの学校では、方言を話した子どもに「方言札」と呼ばれる札を首から下げさせる罰が行われた。日本の統治した台湾や朝鮮でも、「国語」として日本語が教えられ、のちに強いられていった。
戦後、標準語という言葉は、上から押しつける響きがあるとして、「共通語」と言い換えられることが多くなった。テレビの普及で、全国の人が同じ言葉を聞き話すようになる一方で、方言は地域の文化として見直され、残そうとする取り組みも広がっている。