東郷平八郎
概要
薩英戦争を砲台の側で見て、イギリスに7年留学した。日本海海戦で「敵艦見ゆとの警報に接し」の信号を上げ、丁字戦法で勝った。「東洋のネルソン」。晩年は軍縮に反対して海軍を割った。国葬。
所属
日本関わったできごと(2)
日露戦争1904年 · 連合艦隊日本海海戦AD1905年5月27日 · 司令長官本文
東郷平八郎は1848年、薩摩の鹿児島城下、加治屋町に生まれた。西郷隆盛や大久保利通と同じ町で、下級武士の家が並ぶ一角だった。1863年、15歳のとき、生麦事件をきっかけにイギリスの艦隊が鹿児島湾に来襲し、薩英戦争が起きた。東郷は父や兄とともに砲台の守りについたが、イギリスの軍艦の大砲の威力をまざまざと見せつけられた。薩摩はこの戦いの後、イギリスに学ぶ道を選び、東郷も海軍を志した。

戊辰戦争では、薩摩藩の軍艦春日丸に乗り組み、旧幕府の艦隊と戦った。阿波沖の海戦では、榎本武揚の率いる開陽丸と砲火を交え、翌年には宮古湾の戦いや箱館での戦いにも加わった(箱館戦争の終結)。
1871年、23歳の東郷は、新政府の留学生としてイギリスへ渡った。海軍の士官学校には入れなかったため、テムズ川に浮かぶ練習船で船乗りを育てる商船学校で学んだ。体の小さな東洋人として、同級生から中国人とからかわれ、それに怒って喧嘩をしたという話も伝わる。練習船で世界一周の航海を経験し、国際法や数学、航海術を身につけた。日本がイギリスに発注した軍艦の建造の監督にも関わり、留学は7年に及んだ。1878年、その軍艦に乗って帰国した。
帰国後は艦長などを歴任したが、病気がちで、目立つ出世はしなかった。名が知られるようになったのは、1894年の日清戦争の開戦のときである。巡洋艦浪速の艦長だった東郷は、豊島沖で、清国の兵1000人余りを運ぶイギリスの商船高陞号に出会った。停船を命じても従わないため、東郷は撃沈を命じた。イギリスの船を沈めたことで国際問題になりかけたが、イギリスの国際法学者たちが、戦時の国際法に照らして正当だったと論じ、騒ぎは収まった。東郷が留学中に国際法を学んでいたことが生きたと言われる。

1903年、日露の関係が緊迫するなか、海軍大臣の山本権兵衛は、予想されていた別の提督ではなく、舞鶴の鎮守府で閑職にあった東郷を連合艦隊司令長官に抜擢した。なぜ東郷なのかと明治天皇に問われて、東郷は運のいい男ですから、と答えたという逸話が残っている。
1904年に始まった日露戦争で、東郷はまず旅順のロシア艦隊を封じ込めた。8月の黄海での海戦では、旅順から逃れ出ようとする艦隊を打ち破ったが、多くを港へ逃げ帰らせた。旅順の艦隊は、陸軍の旅順攻囲戦によってようやく壊滅した。そして1905年5月27日、遠くヨーロッパから回航してきたロシアのバルチック艦隊を、対馬海峡で迎え撃った(日本海海戦)。

開戦にあたり、大本営には「本日天気晴朗なれども波高し」で知られる電報が送られ、旗艦三笠には、皇国の興廃はこの一戦にあり、各員一層奮励努力せよ、という意味のZ旗が掲げられた。東郷は敵の目の前で艦隊の向きを大きく変え、敵の先頭を押さえる形に持ち込んだ。砲弾が飛び交うなか、東郷は三笠の艦橋に立ち続けたと伝えられる。2日にわたる戦いで、ロシア艦隊はほぼ全滅し、日本側の損害はわずかだった。トラファルガーの海戦に比べられる完勝で、東郷は「東洋のネルソン」と呼ばれた。
戦後、東郷は国民的な英雄となった。参謀の秋山真之が起草した「連合艦隊解散之辞」の結びの、勝って兜の緒を締めよ、という言葉は、アメリカのセオドア・ローズヴェルト大統領が英訳させて自国の海軍に配ったと言われる。1913年に元帥となり、翌年から7年間、のちの昭和天皇となる皇太子裕仁の教育を担う東宮御学問所の総裁を務めた。学習院の院長を務めた乃木希典と並び、日露戦争の英雄が皇室の教育を託されたのである。

晩年の東郷は、海軍の中で大きな影響力を持ち続けた。1930年、ロンドン海軍軍縮条約で巡洋艦などの保有量が制限されると、東郷は条約に反対する「艦隊派」の側に立った。神格化された元帥の意向は誰も逆らえない重みを持ち、海軍の内部の対立を深め、条約を支持した人々の多くが海軍を追われる一因になったとも言われる。ワシントン海軍軍縮条約以来の軍縮の流れは、ここで大きく揺らいだ。
1934年5月30日、東郷は86歳で亡くなり、国葬が営まれた。1940年には東京の原宿に東郷神社が建てられた。日本海海戦は、ヨーロッパの大国がアジアの国に海で敗れた戦いとして世界に衝撃を与え、ロシアの支配を受けていた国々や、植民地の人々からも喝采を浴びた。一方で、その勝利の記憶は、日本の海軍に艦隊決戦への過信を残したとも指摘されている。