人物

板垣退助

Itagaki Taisuke
1837年 – 1919年(享年82・推定)
日本重要度 4

概要

民撰議院設立建白書を出し、自由民権運動の口火を切った。

所属

日本

関わったできごと(2)

民撰議院設立建白書1874年 · 提出第一回帝国議会1890年11月29日(明治23年11月29日) · 議会側

本文

板垣退助は1837年、土佐藩の城下町高知で、上士の乾家に生まれた。もとの名は乾退助という。土佐藩では、山内家に従って入国した上士と、もとの長宗我部家の家臣の流れをくむ郷士との身分の差が厳しく、乾家は上士の側にいた。少年時代は乱暴者で知られ、喧嘩騒ぎで城下から追放されたこともある。藩主の山内容堂に取り立てられて側近となり、江戸で洋式の兵学を学んだ。

板垣退助の肖像(1910年代頃)
板垣退助の肖像(1910年代頃)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

藩主の容堂は幕府を支える公武合体の立場をとっていたが、退助は早くから武力で幕府を倒すべきだと考えていた。1867年、土佐の中岡慎太郎の仲立ちで、京都で薩摩の西郷隆盛らと会い、戦いになれば土佐も兵を出すと約束した。藩の方針とは別に、退助は土佐の兵を洋式に改める仕事を進めていた。

1868年に戊辰戦争が始まると、退助は土佐の兵を率いて東山道を進む軍の参謀となった。甲府へ向かう途中、戦国時代に武田信玄に仕えた板垣信方の子孫であることを名のり、甲斐の人々の支持を得るため、姓を板垣に改めた。甲州勝沼では、近藤勇の率いる旧幕府方の甲陽鎮撫隊を破った。さらに北へ転戦し、秋には会津の若松城を攻め落とした(会津戦争)。

会津戦争に関わる図版:Battle of Aizu at Wakamatsu castle by Tsukioka Yoshitoshi
会津戦争Wikimedia Commons Yoshitoshi · Public domain

この会津での経験が、のちの板垣の考え方の出発点になったと、本人は語っている。会津藩の武士たちは命をかけて戦ったが、領民の多くは藩を助けず、荷物をまとめて逃げ出し、なかには政府軍の荷物運びに雇われる者さえいた。上に立つ武士だけが国を背負い、民が国の行く末を自分のことと思っていなければ、いざというとき国は守れない。民を政治に加えなければならない、と考えるようになったという。

維新の後、板垣は新政府の参議となり、廃藩置県を進めた。しかし1873年、朝鮮に使節を送るかどうかをめぐる争いで、西郷隆盛らとともに敗れ、政府を去った(征韓論政変)。翌1874年1月、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らとともに、民撰議院設立建白書を政府に提出した。政府の権力は天皇にも人民にもなく、一部の役人に握られている。税を納める者には政治に関わる権利がある。だから人民が選んだ議員による議会を開け、という主張である。建白書は新聞に載せられ、国会を開けという論争が全国に広がった。自由民権運動の始まりとされる。

廃藩置県に関わる図版:Modern Japan prefectures map in 1872
廃藩置県Wikimedia Commons Yoshida Togo (1860-1932) et al · Public domain

同じ年、板垣は郷里の高知に立志社を作り、士族たちの政治結社とした。西南戦争で、西郷に呼応して兵を挙げようとする動きが立志社の中にもあったが、板垣は武力ではなく言論で政府と争う道を選んだ。運動はやがて士族だけでなく、地方の豪農や商人、都市の知識人へ広がり、1880年には国会の開設を求める全国の団体が集まって、署名を集めて政府に請願した。1881年、政府が9年後の国会開設を約束すると(明治十四年の政変)、板垣は自由党を作って総裁となった。

1882年4月、板垣は岐阜で演説を終えて会場を出たところを、若い小学校教員の相原尚褧に短刀で刺された。そのとき「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと伝えられ、この言葉はたちまち全国に広まった。居合わせた党員の言葉だったとする説や、後から周囲や新聞が言葉を整えたとする見方もあり、本人がその場でそう言ったのかどうかは決着していない。傷は命にかかわるものではなかった。相原は後に恩赦で出獄すると板垣を訪ねて謝罪し、板垣はこれを許して会っている。

板垣死すとも自由は死せず(安倍晋三書)
板垣死すとも自由は死せず(安倍晋三書)Wikimedia Commons Shinzō Abe · Public domain

同じ年の暮れ、板垣は後藤象二郎とヨーロッパへ視察に出かけた。その費用が政府の関係者から出ているのではないかと疑われ、党の内外から激しく批判された。留守の間、各地で自由党員と困窮した農民が結んで蜂起する事件が相次いだ(秩父事件)。党は統制を失い、1884年に解党した。

1887年、政府は板垣に伯爵の爵位を与えた。板垣は華族の制度そのものに批判的で、いったんは辞退したが、天皇からの授爵を断り続けることはできないとして受けた。民権の旗手が爵位を受けたことは、当時から批判された。1890年に議会が開かれると(第一回帝国議会)、再び自由党をまとめ、1896年には伊藤博文の内閣に内務大臣として入った。1898年には、大隈重信と組んで日本で最初の政党内閣を作り、内務大臣になったが、4か月で崩れた。1900年、伊藤博文が新しい政党を作るのを機に、政界を退いた。

日本銀行券B100円券
日本銀行券B100円券Wikimedia Commons Bank of Japan · Public domain

晩年は社会の改良を説く文章を書き続け、爵位は一代限りにすべきだと唱えた。1919年に82歳で死ぬと、その考えに従って、跡継ぎは爵位を継がなかった。1953年から発行された百円札に肖像が使われている。武力で幕府を倒した側の軍人が、戦場で見た光景から、議会と政党の政治を唱える側に回った。その運動が、のちの帝国議会の開設を早めた。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1837年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →