田中正造
概要
下野の名主の子で、栃木県議、衆議院議員。足尾の鉱毒で「亡国に至るを知らざれば之即ち亡国」と演説し、議員を辞めて天皇に直訴した。谷中村に住み込んで、村と共に消えた。遺品は小石と聖書と日記。
所属
日本関わったできごと(1)
足尾鉱毒事件AD1901年12月10日 · 直訴本文
田中正造は1841年、下野の国の小中村(いまの栃木県佐野市)に、名主の家の長男として生まれた。17歳で父の後を継いで村の名主となり、領主の家臣の不正を訴えて争った。そのために捕らえられ、10か月余りを牢で過ごした。明治維新の後は東北の江刺県で下級の役人となったが、上司が殺された事件の犯人と疑われて投獄され、3年近く獄中にあった。無実が明らかになって釈放されたのは1874年のことである。牢の中で、彼は西洋の政治や経済の翻訳書を読みふけったという。

故郷に戻った田中は、自由民権運動に身を投じた。地元で新聞を出し、1880年には栃木県会の議員になった。強引な土木工事を進めて民権派を弾圧した県令の三島通庸と激しく対立し、1884年には再び捕らえられた。1886年には県会議長となり、1890年、第一回帝国議会を前にした第1回の衆議院議員総選挙で当選した。49歳だった。
その頃、栃木と群馬の県境を流れる渡良瀬川の流域で、異変が起きていた。上流の足尾銅山は、古河市兵衛の経営のもとで産出量を急速に伸ばしていたが、鉱山から出る毒を含んだ水や土砂が川に流れ込み、魚が死に、洪水のたびに田畑に毒が広がって作物が育たなくなった。山の木は製錬の煙と燃料のための伐採で枯れ、山が荒れて洪水も増えた(足尾鉱毒事件)。

田中は1891年、帝国議会で初めて足尾の鉱毒を取り上げ、政府に操業の停止を求めた。以後10年にわたって議会で追及を続けた。1900年、被害地の農民が大挙して東京へ陳情に向かう途中で警官隊とぶつかり、多くが捕らえられる事件が起きると、田中は、国が民を殺していることに気づかないのは国が滅びることだ、という趣旨の演説で政府を激しく責めた。しかし政府は動かなかった。
1901年10月、田中は議員を辞めた。そして12月10日、議会の開院式から帰る明治天皇の馬車に、直訴状を手に駆け寄った。直訴状の文案は、幸徳秋水が書き、田中が手を入れたものだった。田中は警備の者に取り押さえられ、直訴状は天皇に届かなかった。政府は田中を狂人として扱い、その日のうちに釈放した。しかし新聞は直訴状の内容を大きく報じ、鉱毒の問題は全国に知られるようになった。東京の学生たちが被害地を訪れ、女性たちも救済の会を作って支援に乗り出した。

政府が打ち出した解決策は、鉱毒を沈めるための遊水池を作ることだった。その場所に選ばれたのが、渡良瀬川の下流の谷中村である。1904年、63歳の田中は谷中村に移り住み、村に残ろうとする人々とともに暮らし始めた。村は1906年に廃止され、1907年には、立ち退きを拒んで残っていた16戸の家が、県によって強制的に取り壊された。残った人々は堤防の上や家の跡に仮小屋を建てて住み続け、田中は彼らと寝起きをともにした。
晩年の田中は、関東の川を歩いて回った。渡良瀬川や利根川の流れを自分の足で調べ、洪水の原因は、川をまっすぐにし、遊水池を作るといった無理な治水にあると考えた。川は曲がって流れるもので、山を守り、川の本来の姿を守ることこそが治水だ、というのが彼の結論だった。1912年の日記には、真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし、と書いている。

1913年8月、田中は支援者の家を回る途中で倒れ、9月4日、71歳で亡くなった。残された持ち物は、菅笠と頭陀袋一つだった。袋の中には、新約聖書と大日本帝国憲法を綴じ合わせた冊子、日記帳、川の調査の原稿、鼻紙、そして小石が3つ入っていただけだったという。葬儀には流域の農民をはじめ大勢の人が集まり、遺骨は彼を慕う流域の人々の願いで、何か所にも分けて葬られた。
谷中村の跡は渡良瀬遊水地となり、いまは広いヨシ原と湖が広がり、2012年にはラムサール条約の湿地に登録された。田中正造は、日本の公害問題の原点に立った人として記憶されている。半世紀後の水俣病をはじめ、企業と国の責任が問われるたびに、彼の名が思い起こされてきた。