できごと

日比谷焼打事件

Hibiya incendiary incident
AD1905年9月5日
重要度 3
日比谷焼打事件に関わる図版:Hibiya Incendiary Incident1
Hibiya Incendiary Incident1 Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

賠償金なしの講和に怒った群衆が日比谷公園に集まり、内相官邸、交番、教会、新聞社を焼いた。死者17人。戒厳令。国民は自分が勝ったと思っていた。政府は負けかけていたことを言えなかった。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

本文

1905年の夏、日本の国民の多くは、ロシアとの戦争に勝ったと信じていた。新聞は旅順の陥落、奉天の会戦、日本海海戦の大勝を連日大きく報じ、勝利の祝賀会や提灯行列が各地で開かれた。勝った以上、ロシアから多額の賠償金を取り、広い領土を得るのは当然だ。増税と国債で戦費を負担し、家族を戦場に送り出した人々は、そう考えていた。

しかし実際には、日本はこれ以上戦争を続ける力をほとんど失っていた。日露戦争の戦費は、当時の国家予算の何年分にも当たり、その多くをイギリスやアメリカで集めた外債に頼っていた。戦死と病死を合わせた死者は8万人を超え、満州の陸軍は兵も砲弾も足りなくなっていた。ロシアの側は国内で革命の騒ぎが起きていたが、陸軍はまだ増援を送り込める状態だった。政府はアメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介にすがり、講和を急いだ。だがその内情を国民に明かせば、交渉の席でロシアに足元を見られる。政府は黙っていた。

日露戦争に関わる図版:RUSSOJAPANESEWARIMAGE
日露戦争Wikimedia Commons Original uploader and author was Dustandshadow at en.wikipedia · Public domain

アメリカの港町ポーツマスでの交渉で、全権の小村寿太郎は、賠償金の要求を取り下げ、樺太の南半分を得ることで妥協した(ポーツマス条約)。韓国での日本の優越、遼東半島の租借権、南満州の鉄道の権利は認められたが、賠償金は一銭も無い。8月の末にその条件が伝わると、多くの新聞は「屈辱の講和」と書き立て、全権を非難した。政府を支持し続けたのは、徳富蘇峰の『国民新聞』などわずかだった。

講和に反対する政治家や運動家は「講和問題同志連合会」を作り、条約の破棄と戦争の継続を訴えた。9月5日、彼らは日比谷公園で国民大会を開こうとした。この日はちょうど、ポーツマスで条約が調印された日でもある。警視庁は集会を禁じ、公園の門を丸太で塞いで警官を立てたが、集まった数万の群衆は門を押し破って公園になだれ込み、講和反対の決議を上げた。

日比谷焼打事件の後の様子
日比谷焼打事件の後の様子Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

大会のあと、群衆の一部は暴徒になった。政府の御用新聞とみなされた国民新聞社に押しかけて石を投げ、建物を壊した。内務大臣芳川顕正の官邸を襲って火を放った。警官がサーベルを抜いて群衆を追い払おうとしたことが怒りに油を注ぎ、群衆は市内の警察署や交番を次々に襲って焼いた。市内の交番や派出所の多くが焼かれ、壊された。キリスト教の教会も十か所あまりが襲われた。ロシアと同じ宗教だとみなされたためとされる。市電の車両も焼かれた。

9月6日、政府は緊急の勅令によって東京市と周辺の郡に戒厳令を敷き、軍隊を出して鎮めにかかった。戦争でも内乱でもないときに、治安のために戒厳を用いたのは、これが初めてである。騒ぎは7日ごろまでに収まったが、戒厳は11月の末まで続いた。死者は17人、負傷者は数百人以上、検挙された者は2千人を超えた。講和に反対する集会は、横浜や神戸、大阪など各地でも開かれた。

講和そのものは覆らなかった。条約は批准され、翌1906年の1月、桂太郎の内閣は退いて、西園寺公望が後を継いだ。桂と西園寺が交互に政権を担う時代の始まりである。

この事件で、政治の舞台に新しい役者が現れた。都市に住み、新聞を読み、集会に集まる大勢の民衆である。1905年の日比谷から、電車賃の値上げ反対の騒ぎ、1913年の大正政変、そして1918年の米騒動まで、都市の群衆が政治を揺さぶる騒ぎが繰り返された。歴史家はこの時期を「都市民衆騒擾期」と呼び、普通選挙と政党政治を求める大正デモクラシーの出発点をここに見る人もいる。

一方で、ここで群衆が求めたのは、もっと戦争を続けること、もっと多くを取ることだった。民衆の声が政治を動かす力は、そのまま対外的な強硬論を後押しする力にもなりうる。政府は国民に本当のことを言わず、国民は知らされた勝利の話だけを信じて怒った。この食い違いは、のちの戦争でも、もっと大きな形で繰り返されることになる。

同じ時代のできごと

内閣制度の創設AD1885年12月22日狂犬病のワクチンAD1885年7月6日ハルツームの陥落AD1885年1月26日コンゴ自由国1885年最初の摩天楼AD1885年ビルマの併合AD1885年11月28日砂場AD1885年インド国民会議の創立AD1885年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1905年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →