観音埼灯台
概要
開国した日本の海には、夜に船を導く明かりがほとんどなかった。幕府は英米仏蘭の四か国と、八つの洋式灯台を建てる約束を交わしていたが、建てる前に幕府が倒れる。約束は明治政府に引き継がれた。最初に灯ったのが、東京湾の入り口の観音埼である。設計はフランスの技師ヴェルニーで、横須賀の製鉄所で焼いたレンガが使われた。着工した11月1日は、いまも灯台記念日になっている。レンガの塔は大正の地震で崩れ、いまの塔は三代目である。
場所
35.26°N 139.74°E · 日本・神奈川県横須賀市
本文
江戸時代の日本の海にも、明かりが無かったわけではない。岬や港の入り口には灯明台が置かれ、油や薪を燃やして船に陸の場所を知らせた。港には石の常夜灯が立った。だが、その光は弱く、沖からはほとんど見えなかった。もともと日本の帆船は、岸の目印を見ながら昼に走り、夜は港に入って休むのがふつうで、夜の海を遠くまで照らす必要はあまり無かった。
開国が、それを変えた。1853年にマシュー・ペリーが浦賀沖に現れてから、外国の蒸気船が日本の港に次々とやってくるようになった。蒸気船は風を待たず、夜も走る。見知らぬ海岸で、暗いうちに岩や浅瀬に乗り上げる船も出た。条約で港を開いた以上、その港へ安全に入れる海を用意することが求められた。

1866年、幕府はイギリス、アメリカ、フランス、オランダの4か国と改税約書を結んだ。輸入品の関税を引き下げる取り決めで、その中に、開いた港の周りに洋式の灯台などを整えるという約束が含まれていた。翌年までに、観音埼、野島埼、剱埼、潮岬など8か所の灯台を建てることが決まった。だが、建て始める前に幕府が倒れた。明治の新政府は、この約束を引き継いだ。外国との約束を守ることは、新しい政府が列強から認めてもらうための条件でもあった。
最初の灯台を手がけたのは、フランスの技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーである。彼は幕府に招かれ、横須賀で製鉄所を建てていた。製鉄所とはいっても、鉄を作るだけでなく、船を造り直すための造船所と工場の集まりで、のちの横須賀海軍工廠になる。幕府が倒れたあともヴェルニーは日本に残って仕事を続け、その仕事に灯台の建設が加わった。

場所は、東京湾の入り口にあたる三浦半島の観音埼だった。湾の口は狭く、横浜へ向かう船はみなここを通る。1868年11月1日(明治元年9月17日)、工事が始まった。塔は横須賀の製鉄所で焼いたレンガで築かれ、レンズと灯りの器械はフランスから取り寄せた。白く塗られた四角い塔だった。1869年2月11日(明治2年1月1日)、観音埼灯台に初めて明かりが灯った。日本で最初の洋式の灯台である。工事が始まった11月1日は、いま「灯台記念日」とされている。
ヴェルニーは続いて、房総半島の先の野島埼、三浦半島の城ヶ島、東京の品川にも灯台を建て、東京湾を出入りする船の道筋が照らされていった。ほぼ同じころ、明治政府はイギリスから灯台の技師リチャード・ブラントンを雇い入れた。ブラントンは8年ほどのあいだに、日本の岬や島に20を超える灯台を建て、灯台の守り方や技術者の育て方の土台も作った。のちに「日本の灯台の父」と呼ばれる。灯台を管理する役所も整えられ、明治の半ばには日本の沿岸に洋式の灯台が数多く並ぶようになった。
観音埼の最初の塔は、半世紀あまり光り続けた。1922年(大正11年)の地震で大きくひび割れて使えなくなり、翌年に建て直された二代目の塔は、完成からわずか半年ほどで関東大震災に遭って崩れた。いまの塔は1925年に完成した三代目で、鉄筋コンクリートでできている。白い八角形の塔はいまも東京湾の入り口を照らし、中に登って海を見渡せる灯台として公開されている。

灯台は、国が海を引き受けるしるしである。どの国の船にも、同じ明かりを見せる。外国の船にとって、夜に明かりの灯る海は、安心して入ってこられる海だった。開国とは、港を開くことだけではなかった。そこへ向かう夜の海を照らすことも、含まれていたのである。
イギリスの技師ジョン・スミートンが、荒波の岩の上に石の灯台を築いたのは1759年だった(沖の岩に立つ灯台)。それから110年、同じ考え方が、西洋の技術とともに日本の岬に届いた。観音埼の明かりは、その最初の一つである。