大逆事件
概要
天皇暗殺を計画したとして社会主義者26人が起訴され、非公開の一審で24人に死刑判決、12人が処刑された。幸徳秋水は計画を知らなかったとされる。以後、社会主義は「冬の時代」に入る。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
関わった人(1)
幸徳秋水AD1871年11月5日–AD1911年1月24日 · 処刑本文
日本で社会主義の思想が広まり始めたのは、日清戦争の後、工場で働く人々が増え、貧しさや労働の苦しさが目に見えるようになった時代である。1901年には日本で最初の社会主義政党が作られたが、すぐに禁じられた。日露戦争のさなか、幸徳秋水らは平民社を作り、週刊の新聞で戦争に反対した。幸徳はその前にも、田中正造が天皇に直訴しようとした文の下書きを書いており(足尾鉱毒事件)、言論の人として知られていた。日露戦争の後、幸徳はアメリカに渡って無政府主義の影響を強く受け、帰国後は、議会を通じた改革よりも、労働者が直接に行動して社会を変えるべきだと説くようになった。政府は社会主義者への監視と取り締まりを強めていった。
1910年5月25日、長野県の明科にある製材所で働く職工、宮下太吉が逮捕された。ブリキの缶に薬品を詰めた爆弾を作り、試しに爆発させていたことが発覚したのである。宮下は、天皇に爆弾を投げつけて、天皇も同じ血の流れる人間であることを人々に示そうと考えていた。この計画に加わっていたのは、新村忠雄、古河力作、管野スガらで、実際に暗殺を企てたと言えるのは、この数人だったと考えられている。

ところが政府と検察は、この事件を全国の社会主義者と無政府主義者を一掃する機会にした。6月1日、神奈川県の湯河原に滞在していた幸徳が逮捕される。続いて各地で数百人が取り調べを受け、26人が刑法第73条の大逆罪で起訴された。天皇や皇族に危害を加え、または加えようとした者は死刑に処す、という条文である。大逆罪の裁判は大審院だけで行われ、一度の判決で決まり、控訴も上告もできない。
起訴された人々の多くは、宮下たちの計画とはほとんど関わりがなかった。和歌山県新宮の医師、大石誠之助は、貧しい患者からは診察代を取らず「ドクトル大石」と慕われた人で、幸徳と交わりがあった。曹洞宗の僧侶、内山愚童は、無政府主義の小冊子を秘密に出版していた。岡山の森近運平は、郷里で農業の改良に取り組んでいた。数回会って話をした、意見を交わした、というだけで、天皇暗殺の陰謀の一味とされたのである。
裁判は1910年12月10日に始まった。審理は非公開で、弁護側が求めた証人はほとんど調べられなかった。幸徳は獄中で弁護人にあてて長い文章を書き、自分は無政府主義者だが暗殺を主義とする者ではない、無政府主義は暴力を説くものではない、と訴えた。宮下から爆弾の話を聞いたことはあるが、賛成はしなかったとも述べている。だが判決は、幸徳を一味の首謀者と断じた。
1911年1月18日、大審院は24人に死刑、2人に有期刑を言い渡した。翌日、天皇の「恩命」として、死刑のうち12人が無期懲役に減じられた。そして1月24日、東京監獄で、幸徳秋水、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、森近運平、大石誠之助、内山愚童ら11人が絞首刑に処された。管野スガは翌25日に処刑された。判決からわずか6日後のことだった。
事件は、同時代の人々にも深い衝撃を与えた。弁護人の一人で歌人の平出修は、裁判の記録を若い友人の石川啄木に見せた。啄木はその記録を写し取り、国家の強権が若者の未来を閉ざしているとする評論「時代閉塞の現状」を書いたが、生前には発表できなかった。テロリストの悲しい心を知る、と詠んだ詩も残している。啄木は1912年、26歳で病死した。作家の徳冨蘆花は、処刑の直後の2月1日、第一高等学校の生徒たちの前で「謀叛論」と題して講演し、幸徳らを殺した政府を批判した。「新しいものは常に謀叛である」という言葉は、この講演の中で語られた。
だが、大多数の人々は口を閉ざした。社会主義の本は発禁となり、集会は禁じられ、運動に関わった人々は警察に常に見張られるようになった。1911年には警視庁に、思想を取り締まる特別高等課が置かれた。のちの特別高等警察(特高)の始まりである。社会主義の運動は、大正の半ばまで長い沈黙を強いられた。これを「冬の時代」と呼ぶ。思想そのものを罪とする考え方は、やがて1925年の治安維持法へと受け継がれていく。
戦後の1961年、生き残った被告の一人坂本清馬と、森近運平の妹が再審を請求したが、1965年に棄却され、最高裁判所も1967年に抗告を退けた。法の上では、判決はいまも覆っていない。それでも、名誉を回復する動きは続いてきた。曹洞宗は1993年に内山愚童の僧籍を回復し、新宮市は2018年、大石誠之助を名誉市民とした。処刑から107年後のことである。事件は、国家が「危険な思想」の持ち主を、証拠の乏しいまま死に追いやった出来事として記憶されている。