できごと

火葬禁止令

Japan's cremation ban
AD1873年(明治6年)7月18日
重要度 3
ロシア帝国大英帝国清スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本安南朝鮮王朝フィリピンカンボジアAD1873年(明治6年)7月18日東京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1873年(明治6年)7月18日の版図を描いています(11勢力)。

概要

明治政府は、火葬を仏教の葬法と見て、これを禁じた。神道を国の形に据え直す流れのなかの一つである。だが都市では、土に埋める場所がすぐに足りなくなった。寺と火葬場からは撤回を求める書が相次ぎ、衛生の面からも火葬のほうがよいという意見が出る。二年足らずの1875年5月、禁令は取り消された。同じころ、ロンドンでは火葬協会が、墓地の満杯と地下水の汚れを理由に火葬を広めようとしていた。片方は禁じて戻し、片方は禁を破ろうとしていた。同じ都市の問題に、逆の方向から行き着いている。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

本文

1873年(明治6年)7月18日、明治政府は太政官の布告で、火葬を禁じた。死者を焼いて葬ることを、全国で一律にやめさせようとしたのである。

火葬は、日本では仏教とともに広まった葬り方だった。記録に残る最初の火葬は、700年に僧の道昭を焼いたものとされ、まもなく天皇や貴族の間にも広がった。江戸時代には、浄土真宗の門徒の多い地域や、土地の限られた都市を中心に、寺に付属する火屋で遺体を焼くことが広く行われていた。一方で、農村では土に埋める土葬が多く、どちらが主かは地域によってまちまちだった。

江戸時代の火葬(1867年刊『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より)
江戸時代の火葬(1867年刊『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より)Wikimedia Commons J. M. W. Silver · Public domain

なぜ禁じたのか。明治のはじめ、政府は神道を国の形の中心に据え直そうとしていた。1868年には神社と寺を切り分ける命令が出され、各地で寺や仏像が壊される騒ぎが起きた(神仏分離と廃仏毀釈)。火葬は仏教の葬法と見られていた。そのうえ、親から受けた体を焼くのは不孝だ、という儒教の考えを唱える学者もいた。神道の側の役人や学者の意見が、禁令を後押しした。きっかけの一つは、東京の市中の火葬場の煙と臭いへの苦情で、東京府が火葬場を町はずれへ移すよう命じた直後に、禁令は全国に広げられた。

禁じた途端、都市が詰まった。焼かないなら、埋めるしかない。だが、東京の寺の境内の墓地には、遺体をそのまま埋める広さが無い。焼いた骨なら小さな壺に収まるが、棺ごと埋めるには何倍もの土地が要る。遺体を運ぶ先は遠くなり、葬儀の費用は上がった。東京府は急いで、町の外れに新しい共同の墓地を開いた。青山や谷中の霊園は、このころ開かれたものである。

高い煙突を持たない近代的な火葬場(1993年 宮本工業所製)
高い煙突を持たない近代的な火葬場(1993年 宮本工業所製)Wikimedia Commons 唐山健志郎 · CC BY 3.0

寺や火葬場の業者からは、禁令を取り消すよう求める書が相次いだ。理由として、衛生のことも持ち出された。遺体を埋めた土から、井戸の水が汚れるおそれがある。コレラのような疫病で死んだ者を埋めることへの恐れもあった。焼いてしまうほうが清潔だ、という考えは、西洋の医学を学んだ人々の間にも広がりつつあった。

1875年(明治8年)5月23日、禁令は取り消された。出されてから、2年も経っていなかった。信仰の側から出された禁令は、土地と衛生の側から押し戻されたのである。

火葬されるアステカの皇帝アウィツォトル。周りに翡翠と金の首飾り、ケツァール羽根の装飾、名前の象形文字、3人の供物役
火葬されるアステカの皇帝アウィツォトル。周りに翡翠と金の首飾り、ケツァール羽根の装飾、名前の象形文字、3人の供物役Wikimedia Commons Tovar, Juan de, circa 1546-circa 1626 · Public domain

元に戻しただけでは終わらなかった。政府は、火葬場を置ける場所を取り締まるようになり、煙と臭いを避けて人家から離すことを求めた。1884年には墓地と埋葬を取り締まる規則が作られ、どこに葬ってよいかが国の決まりになった。そして1897年の伝染病予防法は、決められた伝染病で死んだ者は原則として焼くよう定めた。火葬は、宗教の作法から、衛生の手続きの側へと寄っていった。

その後の100年で、日本の火葬は広がり続けた。明治の終わりには死者の3割ほどだった火葬の割合は、戦後の1950年代に半分を超え、いまではほとんどすべての死者が焼かれている。世界でもっとも火葬の割合が高い国の一つである。かつて国が禁じた葬り方だった。

南インドのヒンドゥー教式の葬送行列を描いた1820年の絵画
南インドのヒンドゥー教式の葬送行列を描いた1820年の絵画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

同じころ、イギリスでは逆の向きの動きが起きていた。1874年、ロンドンの外科医ヘンリー・トンプソンらが、火葬を広めるための協会を作った(近代の火葬)。理由は、ロンドンの墓地が満杯であること、埋められた遺体が地下水を汚すこと、そして葬式の費用が貧しい人々に重いことだった。ロンドンでは19世紀の半ばに、あふれかえった町中の教会墓地が次々と閉じられていた。

日本は火葬を禁じて、2年で戻した。イギリスでは、火葬を禁じる法は無かったのに、教会の反対と世間の嫌悪で、火葬はできずにいた。死者の体が残っていなければ、最後の審判の日に復活できるのか、という信仰の問いもあった。1884年、ウェールズの医師が自分の子の遺体を焼いて裁判にかけられ、法に反しないと判断された。翌年、ロンドン郊外のウォーキングで最初の公式の火葬が行われ、1902年には火葬を定める法ができた。

ヴルバ=ヴェツラー報告書の素描。アウシュヴィッツの火葬場のおおよその配置を示す
ヴルバ=ヴェツラー報告書の素描。アウシュヴィッツの火葬場のおおよその配置を示すWikimedia Commons en:Rudolf Vrba (1924–2006) and en:Alfred Wetzler (1918–1988) · Public domain

どちらの国も、同じことに押されていた。都市に人が集まりすぎ、死ぬ人もまたそこに集まる。葬り方は信仰の問題であると同時に、土地の問題である。死者をどう扱うかの決まりは、たいてい、生きている者の住む場所の都合で書き換えられてきた。解剖のための遺体の扱いを定めたイギリスの解剖法も、戦死者の遺体を故郷へ帰すために広まったアメリカの防腐処理(遺体を、家に返す)も、その例である。

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