小村寿太郎
概要
飫肥藩の下級武士の子で、第一回の文部省留学生としてハーバードで法律を学んだ。小柄で「ねずみ公使」。日英同盟を結び、ポーツマスで賠償金を諦め、帰国して石を投げられた。関税自主権を回復して、その年に死んだ。
所属
日本関わったできごと(2)
日露戦争1904年 · 外相ポーツマス条約AD1905年9月5日 · 全権本文
小村寿太郎は、1855年10月26日(安政2年9月16日)、日向の飫肥藩(いまの宮崎県日南市)の下級武士の家に生まれた。藩校の振徳堂で学び、藩の先輩に才を見込まれた。1870年、藩から選ばれた貢進生として東京の大学南校(のちの東京大学)に入った。

1875年、文部省の第1回の海外留学生に選ばれ、アメリカのハーバード大学で法律を学んだ。卒業後もニューヨークの法律事務所で実務を学び、1880年に帰国して司法省に入った。1884年に外務省へ移ったが、長く翻訳局で地味な仕事を続けた。父の事業の失敗で多額の借金を背負い、古びた服で通勤する貧しい役人だったという。小柄で、のちに北京で「ねずみ公使」とあだ名された。
転機は、外務大臣陸奥宗光にその才を認められたことだった。1893年、小村は北京の公使館に代理公使として送られた。翌1894年、朝鮮をめぐって清との対立が深まると、北京から清の動きを伝え続けた。日清戦争の後、1895年、朝鮮の王妃が日本人に殺された事件のあとを受けて朝鮮駐在の公使を務め、1896年に外務次官となった。続いてアメリカ、ロシア、清の公使を歴任し、清では義和団の乱の後始末の講和交渉にあたった。

1901年9月、第1次桂太郎内閣の外務大臣に就いた。45歳だった。ロシアは義和団の乱を機に満洲に大軍を置いたまま撤退せず、朝鮮半島にも手を伸ばしていた。小村は、ロシアとの妥協を探る伊藤博文らの路線に対し、イギリスと結ぶことを主張した。1902年1月、日英同盟が結ばれた。1903年からのロシアとの交渉は実らず、1904年2月、日露戦争が始まった。
1905年、アメリカのセオドア・ローズヴェルト大統領の仲介で、アメリカ東部の軍港の町ポーツマスで講和会議が開かれた。小村は全権として、ロシアの全権ウィッテと向かい合った。日本は戦場では勝ち続けていたが、兵も金も尽きかけていた。ロシアは賠償金の支払いを最後まで拒んだ。小村は本国の指示を受け、賠償金を断念し、樺太の南半分の割譲で妥協した(ポーツマス条約)。韓国への指導権、遼東半島の租借権、長春以南の鉄道などを得たが、国民は勝利にふさわしい賠償を期待していた。条約が結ばれた9月5日、東京では講和に反対する集会が暴動になった(日比谷焼打事件)。
小村はアメリカで病に倒れ、10月にやつれた姿で帰国した。横浜に着いた彼を、首相の桂太郎と海軍大臣の山本権兵衛が両脇から守るように迎えた、と伝えられる。小村は休む間もなく北京へ渡り、12月、ロシアから譲られた満洲の権益を清に認めさせる条約を結んだ。のちの南満洲鉄道は、こうして得た鉄道をもとに作られた。
1906年に外相を退き、駐英大使を務めたあと、1908年、第2次桂内閣で再び外務大臣になった。1910年、日本は韓国を併合した(韓国併合)。小村は外相としてこれを推し進めた一人である。そして1911年2月、アメリカとの新しい通商航海条約に調印し、関税を自分で決める権利を完全に取り戻した。幕末の不平等条約から50年あまり、陸奥が領事裁判権を撤廃したのに続き、条約改正はここで終わった。同じ年の7月には、日英同盟を改定して継続させた。

1911年8月に内閣とともに退き、11月26日、神奈川県の葉山で結核のため死んだ。56歳だった。死の直前に侯爵に叙されている。私生活では借金に追われ続け、家庭も穏やかではなかったと伝わる。
小村の外交は、イギリスと結んでロシアに当たり、大陸に権益を広げる道を開いた。それは近代日本の国際的な地位を押し上げると同時に、のちの満洲をめぐる対立の出発点にもなった。生まれ故郷の日南市には、彼の記念館がある。