概要
1875年、文部省は洋学者の大槻文彦に、日本語の辞書を作るよう命じた。西洋の国々が自国の言葉の辞書を持っているように、日本も国の言葉を整えた辞書を持たなければならないと考えられた。大槻は、言葉を五十音順に並べ、一つ一つに品詞と語源と意味を示し、用例を添えるという、西洋の辞書にならった方法で、ほぼひとりで10年あまりかけて原稿を書き上げた。政府は出版の費用を出さず、大槻は自費で1889年から1891年にかけて4冊の『言海』を出した。日本で初めての近代的な国語辞典である。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
明治の日本には、近代的な日本語の辞書が無かった。漢字の読みと意味を引く字書や、言葉をいろは順に並べた節用集はあったが、日本語の言葉を体系的に並べ、意味と使い方を説明する辞書は無かった。西洋では、イギリスのジョンソンの辞書(ジョンソンの英語辞典)やアメリカのウェブスターの辞書(ウェブスターのアメリカ英語辞典)のように、国の言葉の辞書が国の誇りとされていた。
1875年、文部省に勤めていた大槻文彦は、上司から日本語の辞書を作るよう命じられた。大槻は、仙台藩の儒学者の家に生まれ、祖父は蘭学者の大槻玄沢だった。彼は、英語の辞書を手本に、言葉を五十音順に並べ、それぞれの言葉に、発音、品詞、語源、意味、用例を示すことにした。辞書を作るには文法の枠組みが要るので、大槻はまず日本語の文法を自分で組み立てた。
仕事はほとんど大槻ひとりで進められた。古典を読み、俗語を集め、意味を書き分けた。1882年には、妻と娘を相次いで病で失った。1886年、10年あまりかけて原稿は完成したが、文部省は出版の費用を出さなかった。結局、大槻が自費で出すことを条件に、原稿は返された。1889年から1891年にかけて、全4冊の『言海』が出版された。収めた言葉は、およそ3万9千だった。
1891年6月、東京の芝の紅葉館で完成を祝う会が開かれ、伊藤博文らが出席した。『言海』は売れ行きがよく、明治から昭和のはじめにかけて、小型の版も含めて千回近く版を重ね、日本の国語辞典の手本になった。作家の芥川龍之介も愛用し、随筆に書いている。
大槻はその後も増補の仕事を続けたが、完成を見ずに1928年に亡くなった。増補した辞書は、大槻の死後、兄の大槻如電や関係者の手で仕上げられ、1932年から1937年にかけて『大言海』として出版された。国の言葉を一冊の辞書にまとめるという仕事は、言文一致(言文一致)とともに、近代の日本語を形作る土台になった。