伊藤博文
概要
松下村塾に学び、憲法を起草して初代内閣総理大臣になった。ハルビンで暗殺される。
所属
日本関わったできごと(4)
岩倉使節団1871年 · 副使内閣制度の創設AD1885年12月22日 · 初代総理大日本帝国憲法の発布1889年2月11日(明治22年2月11日) · 起草日清戦争1894年 · 首相本文
1841年、周防国の束荷村(いまの山口県光市)に、農民の子として生まれた。父が萩へ出て、足軽の伊藤家に養子に入ったことで、一家は最下級の武士になる。少年の頃は利助と名乗り、のちに俊輔、博文と改めた。

17歳のころ、吉田松陰の松下村塾に学んだ。身分の低い彼は塾の外で講義を聞いたとも言われる。松陰は彼について、学問は未熟だが周旋の才がある、と評した手紙を残している。人と人の間を取り持ち、話をまとめる力という意味で、その後の生涯を言い当てていた。松陰の刑死のときは、桂小五郎(木戸孝允)とともに遺体を引き取りに行っている。
若い頃は過激な攘夷派だった。1862年、品川の御殿山に建設中のイギリス公使館の焼き討ちに加わり、国学者の暗殺にも関わったとされる。ところが翌1863年、藩の命で井上馨らとイギリスへ密航留学した。のちに長州五傑と呼ばれる5人の一人である。ロンドンの工場と町並みを見て、攘夷が不可能だと悟った。半年ほどで、長州が外国船を砲撃したと知り、井上と二人で急ぎ帰国する。四国艦隊下関砲撃事件の講和では通訳を務めた。

その年の暮れ、藩の実権を幕府に従う一派が握ると、高杉晋作が下関の功山寺で兵を挙げた。わずかな手勢で始まった挙兵に、伊藤は力士を集めた隊を率いて真っ先に駆けつけている。この内戦に勝ったことで長州は討幕へ向かい、伊藤も藩の中で重みを増した。
英語ができ、外国人と物怖じせずに話せたことが、明治政府での出世を早めた。1871年の岩倉使節団では副使の一人となり、サンフランシスコでは英語で演説して、日の丸を世界の国旗の一つにしたいと語った。帰国後は大久保利通に重く用いられ、大久保が暗殺されると後を継いで内務卿になる。

1881年、国会を10年後に開くと政府が約束した。その憲法を作るため、翌年ヨーロッパへ渡り、ベルリンでグナイストに、ウィーンでシュタインに学んだ。イギリス流の議院内閣制ではなく、君主の権限を強く残すドイツ流の形を選んだのは、議会に全部を渡せば政府が動かなくなると見たためである。
帰国すると、1885年に内閣制度の創設を行い、44歳で初代内閣総理大臣になった。総理には四度就いている。井上毅らと起草した憲法は、1889年に大日本帝国憲法の発布として発布され、翌年第一回帝国議会が開かれた。憲法の解説書『憲法義解』も彼の名で出ている。

その前段に、1881年の政変がある(明治十四年の政変)。早く国会を開くべきだと主張した大隈重信を、伊藤は政府から追い出した。そのうえで、国会の開設を10年後と約束する天皇の詔を出させている。急進派を退けて主導権を握りつつ、憲法づくりの時間を確保した一手だった。この政変で、大久保の亡き後の政府の中心は、名実ともに伊藤に移った。
憲法に先立って、1884年には華族令を定め、公家と大名に加えて維新の功臣にも爵位を与えた。のちの貴族院の土台である。1888年には憲法案を審議する枢密院を作り、総理を辞めて自らその議長に就いた。憲法が発布されると、議会で予算を握った民党と政府が激しくぶつかり、伊藤はそのたびに総理として調整にあたった。
日清戦争のときの総理で、1895年、下関で清の李鴻章と講和条約を結んだ。のちに政党の力を無視できなくなると、自ら1900年に立憲政友会を作り、藩閥の政治家が政党を率いる道を開いた。日露戦争の開戦には慎重だったとされる。

1905年に日露戦争が終わると、韓国の外交権を奪う条約を結ばせ、初代の韓国統監になった。1907年、韓国の皇帝がハーグの国際会議へ密使を送って訴えようとした事件を機に、皇帝を退位させ、軍隊を解散させた。各地で義兵の抵抗が起き、多くの死者が出ている。
1909年6月に統監を辞め、10月26日、ロシアと話し合うため訪れた満洲のハルビン駅で、安重根に撃たれて死んだ。満68歳。安重根は伊藤の罪を15か条挙げ、翌年処刑された。韓国では義士として記憶されている。伊藤の死の翌年、韓国併合が行われた。

併合そのものには慎重だったという説があるが、統監として何をしたかは別に評価される。人柄は気さくで、酒と女性を好んだことでも知られ、明治天皇にたしなめられたという話も残る。初代の総理、初代の枢密院議長、初代の貴族院議長、初代の韓国統監と、多くの「初代」を務めた。下級の武士から位を極めた生涯は、明治という時代の上昇気流そのものだった。1963年から20年余り、千円札の肖像になっていた。
晩年は神奈川の大磯に建てた別邸「滄浪閣」で過ごす時間が増えた。漢詩を好み、多くの詩を残している。妻の梅子は下関の芸妓の出で、のちに和歌と英語を学び、鹿鳴館の時代の社交の場に立った。撃たれたあと、犯人が韓国人だと聞いて「馬鹿な奴じゃ」と言ったという話があるが、本当にそう言ったのかは分からない。