乃木希典
概要
西南戦争で連隊旗を奪われ、生涯それを恥じた。旅順で6万人の死傷者を出し、二人の息子を南山と旅順で失い、帰国して天皇に「切腹したい」と言い、「私が死んでからにせよ」と言われた。学習院長として昭和天皇を育て、明治天皇の大喪の日に妻と自刃した。
所属
日本関わったできごと(2)
日露戦争1904年 · 第三軍旅順攻囲戦AD1904年8月19日 · 司令官本文
乃木希典は1849年12月25日(嘉永2年11月11日)、江戸の麻布にあった長州藩の支藩、長府藩の屋敷で、藩士の子として生まれた。幼名は無人(なきと)。体が弱く、泣き虫だった少年を、父は厳しく鍛えたと伝えられる。少年のころ一家とともに長府へ移り、1864年には萩の玉木文之進のもとに身を寄せて学んだ。文之進は吉田松陰の叔父で、松陰を厳しく育てた人物として知られる。幕末の動乱の中、乃木は長府藩の報国隊に加わって幕府軍と戦い、明治維新の後、1871年に新しい陸軍の少佐に任じられた。

1876年、萩で不平士族の反乱が起きると、恩師の文之進の門弟たちがこれに加わり、乃木の実の弟も反乱の側で戦死した。文之進は、教え子が乱に加わった責任をとって自ら命を絶った。翌1877年の西南戦争で、乃木は小倉の歩兵第14連隊の連隊長として熊本へ向かった。2月22日、植木の戦いで、乃木の連隊は西郷軍に連隊旗を奪われた。天皇から授かった軍旗を失うことは、軍人として最大の恥とされた。乃木は自決しようとして周りに止められたと伝えられ、この恥を生涯忘れなかった。
1878年、乃木は薩摩出身の静子と結婚し、勝典と保典の二人の息子をもうけた。1887年からはドイツに留学し、帰国後は、それまでの遊び好きな暮らしを改めて、質素で規律に厳しい軍人として生きるようになった。1894年の日清戦争では旅団長として、清の旅順の要塞をわずか一日で落とした。戦後は台湾総督を務めたが、2年ほどで辞し、栃木県の那須で農業をして暮らした時期もあった。
1904年に日露戦争が始まると、乃木は第三軍の司令官として、ロシアが要塞化した旅順の攻略を命じられた(旅順攻囲戦)。10年前に一日で落ちた旅順は、コンクリートと機関銃で固められた近代の要塞に生まれ変わっていた。8月の第1回の総攻撃は失敗し、正面からの突撃を繰り返すたびに、兵士たちは機関銃の前に倒れた。この戦争で乃木は二人の息子を失った。長男の勝典は5月に南山の戦いで、次男の保典は11月、要塞を見下ろす203高地をめぐる戦いで戦死した。1905年1月1日、旅順のロシア軍はついに降伏した。日本軍の死傷者は6万人前後に上った。

1月5日、乃木は旅順の近くの水師営で、ロシアの司令官ステッセルと会見した。乃木は敗れた将軍たちに剣を帯びることを許し、会見の場の写真も、互いに並んだ一枚しか撮らせなかったという。敗者を辱めないこの態度は、内外で讃えられ、のちに唱歌にも歌われた。
1906年に凱旋した乃木は、明治天皇の前で戦いの報告を読み上げる途中、多くの将兵を死なせたことに声を詰まらせたと伝えられる。自ら死んで償いたいと願い出たが、天皇は、死ぬのは自分が世を去った後にせよ、と諭したという話が残っている。1907年、乃木は皇族や華族の子弟が学ぶ学習院の院長となり、寄宿舎に住み込んで生徒たちと寝起きを共にした。のちの昭和天皇も、少年時代に乃木の教えを受けた。
![さくら坂公園[注釈 3]内にある「乃木大將生誕之地」碑](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f6/Stone_monument_of_Maresuke_Nogi%27s_birthplace.jpg/960px-Stone_monument_of_Maresuke_Nogi%27s_birthplace.jpg)
1912年7月30日、明治天皇が亡くなった。9月13日、大喪の礼の夜、葬列の出発を告げる号砲が鳴るころ、乃木は東京赤坂の自宅で、妻の静子とともに自害した。62歳だった。遺書には、西南戦争で軍旗を失って以来、死に場所を探してきたことが記されていた。主君の後を追う殉死は、江戸時代の初めに禁じられた古い習わしだった。
乃木の死は、大きな衝撃を与えた。武士の精神の鑑として讃える声があがる一方で、時代錯誤だと批判する声もあった。その2年後に発表された夏目漱石『こころ』では、主人公の「先生」が、明治の精神に殉死するつもりだと書き残して命を絶つ。森鷗外は、乃木の死の直後に、殉死を題材にした歴史小説を書き上げている。旅順での乃木の指揮をめぐっては、多くの兵を無駄に死なせた無能な将軍だとする見方と、困難な条件の中で任務を果たしたとする見方が、いまも対立している。自宅の跡には乃木神社が建てられ、そばの坂は乃木坂と呼ばれている。