日露戦争

概要
大国ロシアに辛勝した。国力は限界で、賠償金の無い講和に国内は暴動で応えた。
関わった人(4)
東郷平八郎AD1848年1月27日–AD1934年5月30日 · 連合艦隊乃木希典AD1849年12月25日–AD1912年9月13日 · 第三軍小村寿太郎AD1855年10月26日–AD1911年11月26日 · 外相ニコライ2世AD1868年5月18日–AD1918年7月17日 · 皇帝本文
日清戦争の後、日本が手に入れた遼東半島は、三国干渉で清に返させられた。そのわずか3年後、ロシアは遼東半島の旅順と大連を清から借り受け、旅順を太平洋艦隊の根拠地にした。1900年に中国で義和団の乱が起きると、ロシアは鎮圧を名目に満州へ大軍を送り、乱が収まってもその兵を引かなかった。満州の次は朝鮮だと、日本の指導者たちは恐れた。
日本は1902年にイギリスと同盟を結んだ(日英同盟)。ロシアの南下を警戒するイギリスと利害が一致したのである。日本はロシアと交渉を重ね、満州をロシアの、朝鮮を日本の勢力圏として互いに認め合う案などを示したが、交渉はまとまらなかった。1904年2月、日本は国交を断ち、旅順港のロシア艦隊を奇襲したうえで宣戦を布告した。
陸では、日本軍は朝鮮から満州へ進み、8月から9月にかけて遼陽でロシア軍と戦った。同じ頃、乃木希典が率いる第三軍は、旅順の要塞を攻めはじめた(旅順攻囲戦)。ロシアがコンクリートで固めた要塞に、機関銃と鉄条網が待ち構えていた。日本軍は正面からの突撃を何度も繰り返し、膨大な死傷者を出した。港を見下ろす二〇三高地を12月に奪い、そこから港内の艦隊を砲撃して沈めた。旅順が降伏したのは1905年1月1日である。第三軍の死傷者は6万人前後に上り、乃木自身も二人の息子をこの戦争で失った。

1905年3月の奉天の会戦は、両軍あわせて50万を超える兵がぶつかる、当時としては世界最大規模の陸戦だった。日本軍はロシア軍を退かせ、奉天を占領したが、追撃する力はもう残っていなかった。兵は不足し、砲弾も尽きかけていた。開戦からこのときまでに、日本は国家予算の何年分にも当たる戦費を使っていた。その多くは、日銀副総裁の高橋是清がロンドンやニューヨークで募った外国からの借金だった。
ロシアは、本国のバルト海から艦隊を回航していた。半年以上をかけて喜望峰を回り、アフリカとアジアの港を伝って、ようやく日本近海にたどり着いた。1905年5月27日、東郷平八郎が率いる連合艦隊は、対馬沖でこれを迎え撃った(日本海海戦)。東郷は敵の目の前で大きく艦隊の向きを変え、ロシア艦隊の先頭を押さえる形をとった。2日間の戦いで、ロシア艦隊は大半の艦が沈められるか捕らえられ、ウラジオストクにたどり着けたのはごく一部だった。日本の損失は水雷艇3隻にとどまった。

日本海海戦の勝利は決定的だったが、日本にはそのまま戦い続ける国力は無かった。ロシアの側でも、1905年1月の血の日曜日事件をきっかけに各地でストライキや反乱が起き、戦争を続けることが難しくなっていた。アメリカの大統領セオドア・ローズヴェルトが講和を仲介したのは、日本がそれを密かに頼んでいたからでもある。
講和の会議は、アメリカの軍港ポーツマスで開かれた。日本の全権は外相の小村寿太郎、ロシアの全権は元蔵相のウィッテである。ロシアは、戦争に負けたわけではない、と強気に出た。賠償金と樺太の全部を求める日本と、それを拒むロシアの間で会議は決裂しかけた。9月5日に結ばれたポーツマス条約で、ロシアは朝鮮に対する日本の優越を認め、旅順・大連の租借権と、長春から南の鉄道(後の南満州鉄道)を譲り、樺太の南半分を割譲した。だが賠償金は一銭も無かった。
増税と、8万を超える戦死・戦病死者の犠牲に耐えた国内は納得しなかった。新聞は政府の弱腰を責め立てた。講和条約が結ばれたその日、東京の日比谷公園で開かれた反対の集会から群衆があふれ出し、警察署や交番、政府寄りの新聞社などを焼き打ちにした(日比谷焼打事件)。政府は東京に戒厳令を敷いて、ようやく騒ぎを鎮めた。国民の多くは、国がどれほど追い詰められていたかを知らされていなかった。
この戦争は、非ヨーロッパの国がヨーロッパの大国に勝った戦争として、アジアやアフリカで広く受け止められた。中国の孫文や、若き日のインドのネルーは、日本の勝利に胸を躍らせたと後に書いている。一方で日本は、この年のうちに韓国を保護国とし、1910年には併合した。アジアの希望の星と見られた国は、まもなく隣国を支配する側に回った。
勝ったという記憶と、実際には限界だったという事実の落差は、その後の日本の対外判断に影を落とすことになる。満州で得た権益は、多くの血で贖ったものとして手放せない土地になり、30年後の満州事変と、その先の戦争へとつながっていった。