森鷗外
概要
津和野の藩医の子で、19歳で東大医学部を出て、ドイツに4年。帰ってすぐ『舞姫』を書いた。脚気の原因を細菌だと言い張り、日露戦争では第二軍の軍医部長として兵を死なせた(のち軍医総監)。晩年は歴史小説。「石見人森林太郎として死せんと欲す」。
所属
日本本文
森鷗外、本名は森林太郎。1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国の津和野で、藩主亀井家に仕える典医の家に生まれた。森家は代々の医者の家で、長男の林太郎は幼いころから跡継ぎとして期待され、論語や孟子、オランダ語を学んだ。明治の世になると、1872年、10歳で父とともに上京し、ドイツ語を学んで、東京医学校(のちの東京大学医学部)の予科に入った。入学の年齢に足りなかったため、生まれ年を2年早く偽って届けたとされる。

1881年、19歳で医学部を卒業した。当時の最年少の卒業生の一人だった。ただ、成績は首席ではなく、文部省の留学生には選ばれなかった。陸軍に入って軍医となり、1884年、陸軍の命でドイツに留学した。ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで衛生学を学び、ミュンヘンではペッテンコーファーに、ベルリンでは細菌学のロベルト・コッホに師事した。日本を見下す講演をした地質学者ナウマンに、ドイツ語の新聞で反論したこともある。医学のかたわら、ドイツの文学や哲学を貪るように読んだ。
1888年9月に帰国すると、その直後、ドイツから一人の女性が鷗外を追って横浜に着いた。エリーゼ・ヴィーゲルトというこの女性は1か月ほど日本にとどまったが、森家の人々の説得で帰国した。2年後の1890年1月、鷗外は小説『舞姫』を発表する。ベルリンに留学した青年官吏太田豊太郎が、貧しい踊り子エリスと恋に落ち、身ごもった彼女を捨てて帰国の船に乗る物語で、「石炭をば早や積み果てつ」という一文で始まる。雅やかな文語で、自分を責める近代の青年の内面を描いたこの作品は、日本の近代小説の出発点の一つになった。

同じころ、訳詩集『於母影』を出し、文芸誌『しがらみ草紙』を創刊して、評論でも活躍した。坪内逍遥と、文学に理想は必要かをめぐって論争したのもこのころである。私生活では、1889年に海軍中将の娘赤松登志子と結婚し、長男於菟が生まれたが、翌年に離婚した。
軍医としての出世は、順調ではなかった。日清戦争に従軍したのち、1899年、九州の小倉の師団の軍医部長に転じた。中央から遠ざけられた左遷とみなされ、鷗外は小倉で3年を過ごした。1902年に東京へ戻り、判事の娘荒木志げと再婚した。

鷗外の経歴に重い影を落としているのが、脚気の問題である。白米を主食とする日本の軍隊では、手足がしびれ、心臓が弱って死に至る脚気が多くの兵を倒していた。海軍の軍医高木兼寛は、食事に原因があると考えて麦や洋食を取り入れ、海軍の脚気をほぼなくした。陸軍の中でも麦飯を取り入れる部隊が出たが、陸軍の医学の主流は、脚気は細菌などによる病気だとする説に立ち、栄養に原因を求める説を退けた。ドイツ医学を学んだ鷗外も、その主流の側で論陣を張った一人だった。日露戦争で鷗外は第二軍の軍医部長として出征したが、この戦争で陸軍は25万人ほどの脚気の患者を出し、2万7000人ほどが脚気で死んだとされる。被害をどこまで鷗外個人の責任とみるかには議論があるが、彼が最後まで麦飯の効き目を認めなかったことは確かである。1907年、鷗外は陸軍軍医の最高位である軍医総監となり、陸軍省の医務局長に就いた。翌年には臨時脚気病調査会が設けられ、鷗外が会長を務めた。1910年に鈴木梅太郎が米ぬかの有効成分を発表し、脚気がのちにビタミンB1と呼ばれる栄養素の不足で起きることが明らかになっていく(脚気とビタミンの発見)。
軍の頂に立ったのと同じころ、鷗外は再び小説を書き始めた。1909年、文芸誌『スバル』に、自分の性の目覚めをたどった『ヰタ・セクスアリス』を載せ、掲載誌は発売を禁じられた。続いて『青年』『雁』を書き、夏目漱石と並ぶ文壇の大家と目されるようになった。

1912年9月、明治天皇の大葬の夜に乃木希典が妻とともに自決した。鷗外はその知らせを受けてまもなく、主君の死に殉じる武士を描いた『興津弥五右衛門の遺書』を書き上げた。これを境に、鷗外は江戸時代の史料に材をとる歴史小説へ向かう。殉死を許されなかった家の悲劇を描いた『阿部一族』、安寿と厨子王の伝説を書き改めた『山椒大夫』、弟を死なせた罪人を護送する同心の目を通して、財産と安楽死の問題を考えさせる『高瀬舟』が、この時期に生まれた。晩年は、弘前藩の医者渋江抽斎の生涯を、墓や古文書を訪ねて掘り起こした『渋江抽斎』など、史伝と呼ばれる仕事に打ち込んだ。医者であり、官吏であり、本を愛した抽斎の姿に、鷗外は自分を重ねていたとも言われる。
1916年に軍医総監の職を退き、翌年からは帝室博物館の総長と図書頭を務めた。1922年7月9日、腎臓の病と肺結核のために死んだ。60歳だった。死の3日前、親友の賀古鶴所に口述して書き取らせた遺言は、よく知られている。余は石見人森林太郎として死せんと欲す、と始まり、宮内省や陸軍とのつながりがあっても、死の瞬間にはあらゆる外形的な扱いを辞す、墓には「森林太郎墓」のほか一字も彫ってはならない、と結ばれていた。墓は東京の三鷹の禅林寺と、故郷津和野の寺にある。三鷹の墓の斜め向かいには、鷗外を敬愛した太宰治が葬られている。

軍医として、作家として、明治の日本の近代化の最前線に立ち続けた人だった。輝かしい肩書きと、脚気の問題での頑なさと、その肩書きをすべて脱ぎ捨てようとした遺言。その全部を含めて、鷗外は近代日本の矛盾を一身に生きた人として読み継がれている。