できごと

内村鑑三不敬事件

Uchimura Kanzō lèse-majesté incident
AD1891年1月9日
重要度 3
内村鑑三不敬事件に関わる図版:First Higher School, Japan before 1923
First Higher School, Japan before 1923 Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

第一高等中学校の教育勅語奉読式で、教師の内村が天皇の署名に深く頭を下げなかった。「不敬」と騒がれ、辞職に追い込まれた。キリスト教は国体と相容れるか、という論争が始まる。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

関わった人(1)

内村鑑三AD1861年3月26日–AD1930年3月28日 · 辞職

本文

1890年10月、明治天皇の名で教育勅語が出された。忠孝を道徳の根本とし、国に事があれば身を捧げて皇室を助けよと説くこの文書は、全国の学校に写しが配られ、式の日に校長が読み上げ、教員と生徒が頭を下げることになった。天皇の写真(御真影)とともに、勅語は学校の中でいちばん大切に扱われるものになっていく。その扱い方がまだ定まっていなかったころに、この事件は起きた。

内村鑑三は、札幌農学校でキリスト教に入信し、アメリカのアマースト大学で学んで帰国した。1890年の秋から、東京・本郷の第一高等中学校(のちの第一高等学校)で嘱託の教員として英語や歴史を教えていた。同じ札幌農学校で学んだ新渡戸稲造らとともに、キリスト教と日本人であることを両立させようとした世代の一人である。

内村鑑三の肖像
内村鑑三の肖像Wikimedia Commons 益本重雄, 藤沢音吉 · Public domain

1891年1月9日、第一高等中学校の講堂で、勅語の奉読式が開かれた。この学校に下された勅語には、天皇の自筆の署名があった。勅語が読み上げられたあと、教員と生徒は一人ずつ壇に上がり、署名に向かって礼をすることになっていた。内村は、この礼が神を拝むような宗教の行いではないかと迷い、深く頭を下げることができなかった。のちに彼は、アメリカの友人にあてた手紙で、その場でためらいながら少し頭を下げただけだったと書いている。

式のあと、生徒や一部の教員が内村を「不敬」だと責め、新聞がそれを大きく書き立てた。学校の側から、改めて礼をしてほしいと求められると、内村は、礼が宗教的な崇拝でないのなら応じてよいと答えた。だが、彼はちょうど流行していた悪性の感冒で倒れており、自分では出られなかった。同僚の教員が代わりに礼をしたが、騒ぎは収まらなかった。2月、内村は職を解かれた。看病にあたった妻のかずは、自らも病にかかり、その年の4月に亡くなった。結婚してわずか2年足らずのことだった。

事件は、一人の教員の進退にとどまらなかった。1893年、東京帝国大学教授の哲学者、井上哲次郎は『教育ト宗教ノ衝突』を著し、キリスト教は国家を重んじず、忠孝よりも区別のない博愛を説き、この世の外に目を向ける教えであって、勅語の精神と相容れないと論じた。その実例として挙げられたのが内村の行いだった。内村は公開状を書いて反論し、植村正久、柏木義円らのキリスト者も筆をとった。キリスト教徒は忠実な日本の国民でありうるか、という問いは、この論争で初めて正面から争われた。

同じころ、各地のキリスト教系の学校や、キリスト教徒の教員が、勅語や御真影の扱いをめぐって批判を浴びた。勅語に頭を下げることは、宗教ではなく国民の礼儀だとする考え方が、こうした騒ぎを通して固まっていく。昭和に入ると、神社への参拝も同じ理屈で学校に求められるようになり、それを拒んだキリスト教徒が弾圧を受けることになる。

職を失った内村は、大阪、熊本、名古屋と移り住み、貧しい暮らしのなかで書き続けた。1894年に英語で書いた『日本と日本人』(のちに改められて『代表的日本人』)では、西郷隆盛や二宮尊徳、日蓮らを、西洋に向けて日本の誇るべき人物として紹介した。翌年には、自らの入信の歩みを英文の『余は如何にして基督信徒となりし乎』にまとめた。のちに新聞『万朝報』の記者として足尾鉱毒事件を論じ、日露戦争の前には戦争に反対して社を去った。教会に属さず聖書を読む「無教会」の集まりからは、矢内原忠雄や南原繁ら、戦後に東京大学の総長となる人々が育った。

日露戦争に関わる図版:RUSSOJAPANESEWARIMAGE
日露戦争Wikimedia Commons Original uploader and author was Dustandshadow at en.wikipedia · Public domain

国賊と呼ばれたこの事件は、内村にとって、日本を愛することとキリストを信じることを、生涯かけて両立させようとする出発点になった。彼が自分の墓に刻ませた英文には、日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、という意味の言葉がある。

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