太陽暦の採用

概要
明治5年12月3日を明治6年1月1日にした。布告から施行まで23日。閏月のある年の役人の給料を13か月分払わずに済む、というのが大隈重信の狙いだったと本人が書いている。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
江戸時代の日本は、月の満ち欠けで月を決め、太陽の動きで季節を合わせる太陰太陽暦を使っていた。新月の日が一日で、ひと月は29日か30日。それでは一年が354日ほどにしかならず、季節と暦が少しずつずれていくので、2、3年に一度、閏月を入れて13か月の年を作った。最後の旧暦は天保年間に作られたもので、農作業の目安となる二十四節気も書き込まれ、人々の暮らしに深くなじんでいた。
時刻も今とは違っていた。日の出前の「明け六つ」と日の入り後の「暮れ六つ」を境に、昼と夜をそれぞれ六つに分ける。夏は昼の一刻が長く、冬は短い。日の出とともに働き、日暮れとともに休む暮らしには、それで不便はなかった。しかし明治の新政府は、西洋の国々と条約を結び、鉄道を走らせ(新橋・横浜間の鉄道)、電信を引こうとしていた。外国との取り決めの日付は西洋の暦で書かれ、汽車は季節で長さの変わる時刻では走らせにくい。

改暦は唐突に発表された。明治5年11月9日、政府は、来たる12月3日をもって明治6年1月1日とする、と布告した。施行までわずか23日である。詔書は、太陰暦は閏月を置くために季節がずれ、迷信も多く混じっていると述べ、四年に一度の閏日だけで済む太陽暦の正しさを説いた。採用されたのは、16世紀にローマ教皇が定め、ヨーロッパに広まった暦(グレゴリオ暦への改暦)である。同時に、一日を24の時に分けて、午前と午後にそれぞれ12時を置く定時法も決められた。
なぜそれほど急いだのか。改暦を進めた参議の大隈重信は、後年の回想で、財政の事情を挙げている。旧暦のままなら明治6年には閏月があって13か月になる。少し前から役人の給料は月給になっており、一年に13回払わねばならない。ところが政府には金が無かった。太陽暦に切り替えれば閏月は消え、しかも明治5年の12月は2日で終わるので、その月の給料も払わずに済む。実際、明治5年12月分の月給は支払われなかった。大隈は、これを自分の献策だったと語っている。もちろん、西洋に合わせて国の仕組みを整えるという大きな流れがあったうえでの話で、財政だけが理由だったわけではない。
急な改暦は混乱を招いた。暦を作って売る業者は、明治6年の旧暦の暦をすでに刷り上げていて、大きな損を出した。人々は、なぜ暦を変えるのか、太陽暦とは何なのかを知らなかった。これに応えたのが福沢諭吉で、改暦の理屈を平易に説いた小冊子『改暦弁』を急いで書き、これがよく売れた。
同じ月の別の布告で、政府は神武天皇が即位したとされる年を元年とする紀元を定めた。1873年は紀元2533年にあたる。即位を祝う紀元節も、新しい暦の上で2月11日に定められた。この紀元は、のちに「皇紀」と呼ばれ、1940年には「紀元二千六百年」の式典が国を挙げて行われる。戦後、紀元節は廃止されたが、1966年に同じ2月11日が建国記念の日として復活した。一方、役所の文書では西暦ではなく元号が使われ続け、年の数え方は元号、月日は太陽暦という今の形がここで固まった。
それから数年のうちに、新しい暦に合わせた暮らしの区切りも作られていく。1876年からは、役所が日曜日を休み、土曜日を半休とした。七日ごとに休むという西洋の習慣が、暦の切り替えに続いて入ってきたのである。明治6年には徴兵令や地租改正も始まっており、改暦は国の仕組みを一気に作り替えた一連の改革の一つだった。
しかし農村は、長く旧暦で動いた。田植えも祭りも、月の満ち欠けと結びついていたからである。旧暦の7月15日に行っていた盆は、新暦の7月15日にすると農繁期に重なり、季節感も合わない。そこで多くの地方では、ひと月遅らせた8月15日に盆を行うようになった。これが「月遅れ」である。正月は新暦、盆は月遅れ、中秋の名月は旧暦という、三つの暦が混じった暮らしは今も続いている。中国や朝鮮半島、ベトナムでは、太陽暦を採り入れたあとも旧暦の正月をいちばん大きな祝日として祝っている。日本では、役所と学校を通じて新しい暦が押し進められ、正月はやがて新暦の行事として定着していった。