内閣制度の創設
概要
太政官を廃し、内閣総理大臣と各省大臣の内閣にした。初代は伊藤博文、44歳。長州4、薩摩4、土佐1、旧幕臣1。憲法より4年早く、政府の形を先に作った。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
関わった人(1)
伊藤博文1841年–1909年 · 初代総理本文
1885年12月22日、明治政府は、王政復古以来の太政官の制度を廃止し、内閣総理大臣と各省の大臣からなる内閣の制度を作った。初代の内閣総理大臣に任じられたのは、44歳の伊藤博文である。日本の内閣は、ここから数えて百代を超えて受け継がれてきた。
明治の新政府は、古代の律令の太政官の名を復活させて政府の頂点に置いた。太政大臣、左大臣、右大臣が天皇を補佐し、その下に参議と、各省の長である卿がいた。太政大臣には公家の三条実美、右大臣にはやはり公家の岩倉具視が就いたが、実際に政治を動かしていたのは、薩摩や長州の下級武士の出身の参議たちだった。誰が天皇を補佐し、誰が政治の責任を負うのかがはっきりしない、という弱点を抱えた仕組みだった。

内閣制度は、憲法を作る準備の中から生まれた。1881年の明治十四年の政変で、急進的な憲法案を出した参議の大隈重信を政府から追い出した伊藤は、同時に、1890年に国会を開くことを天皇の名で約束させた。期限が切られた以上、それまでに憲法を書き、議会と向き合える政府を作らなければならない。1882年、伊藤はヨーロッパに渡り、ベルリンで法学者グナイストに、ウィーンでシュタインに学んだ。君主のもとで、議会に左右されない強い政府が国を動かす、というドイツやオーストリアの憲法の考え方が、伊藤を引きつけた。
帰国した伊藤は、宮中に新しい役所を設けて制度の改革に取りかかった。1884年には華族令を出し、公家と大名に加えて、維新で功のあった者たちを公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の爵位で華族に加えた。将来の議会で、選挙で選ばれる下院を抑える上院の担い手を作るためである。そして翌年、太政官を廃して内閣を置いた。

新しい制度では、総理大臣が各大臣の首班として、天皇の意を受けて政治の方向を示し、行政の各部を統べると定められた。総理大臣に強い指導の権限を持たせる作りだった。総理には、公家の三条ではなく、農民の家に生まれ、足軽の身分から身を起こした伊藤が選ばれた。家柄ではなく実力で政府の長を選んだ、という点で、これは身分の時代の終わりを示す出来事でもあった。三条には新たに設けた内大臣の職が与えられ、天皇の側に仕える宮中の役目と、政府の仕事とが分けられた。
最初の内閣の顔ぶれは、維新を担った藩の出身者で固められていた。総理の伊藤、外務の井上馨、内務の山県有朋、司法の山田顕義が長州。大蔵の松方正義、陸軍の大山巌、海軍の西郷従道、文部の森有礼が薩摩。農商務の谷干城が土佐、逓信の榎本武揚が旧幕臣だった。薩摩と長州が4人ずつで大臣の席を分け合ったこの内閣は、「藩閥政府」の典型とされる。平均の年齢は45歳ほどで、最も若い森は38歳だった。戊辰戦争で新政府軍と戦った榎本が大臣に加わっていたことも目を引く。
4年後の1889年2月、伊藤が中心になって書いた憲法が発布された(大日本帝国憲法の発布)。憲法は、各大臣がそれぞれ天皇を補佐して責任を負うと定め、内閣や総理大臣については何も書かなかった。同じ年の暮れに内閣の決まりも改められ、総理大臣の権限は弱められて、各大臣と並ぶ「同輩中の首席」に近いものになった。陸軍と海軍の大臣は、総理を通さずに天皇に直接上奏できる道も残された。

この弱い総理大臣の仕組みは、のちに重い意味を持つ。昭和に入ると、軍の大臣が辞めて後任を出さなければ内閣が潰れる、ということが繰り返され、総理大臣は軍を抑えることができなかった。内閣と総理大臣が憲法に書き込まれ、総理大臣が国会の中から選ばれて大臣を自由に任免できるようになるのは、敗戦後の日本国憲法によってである。
議会より先に政府を作り、憲法より先に政府の形を固める。内閣制度の創設は、そうした明治の国づくりの順序をよく示している。初代総理の伊藤は、その後も3度にわたって内閣を組織し、生涯で4度総理大臣を務めた。