人物

木戸孝允

Kido Takayoshi
1833年 – 1877年(享年44・推定)
長州藩重要度 4

概要

桂小五郎。長州を代表して薩長同盟に臨み、五箇条の御誓文の草案に関わった。

所属

長州藩

関わったできごと(4)

薩長同盟1866年3月7日(慶応2年1月21日) · 長州側五箇条の御誓文1868年4月6日(慶応4年3月14日) · 草案に関与廃藩置県1871年8月29日(明治4年7月14日) · 主導岩倉使節団1871年 · 副使

本文

木戸孝允は1833年、長州藩の城下町萩で、藩医和田昌景の子として生まれた。7歳で、近所の藩士桂家の養子となり、桂小五郎を名のった。体が弱かったが、藩校明倫館で兵学を教えていた吉田松陰に学び、松陰からその才を高く買われている。1852年、剣術修業の名目で江戸に出て、神道無念流の斎藤弥九郎の道場練兵館に入り、やがて塾頭を務めた。江戸では砲術や造船、蘭学にも手を伸ばし、ペリー来航後の江戸湾の防備や、外国の艦船の様子を自分の目で確かめている。

1860年代の初め、長州藩は尊王攘夷の急先鋒となり、桂は京都にあって、公家や他藩の志士との交渉を受け持った。武力に訴えようとする急進派の中で、桂は慎重な側にいた。1864年6月の池田屋事件では、会合に早く着きすぎていったん外に出ていたために難を逃れたと、本人は後に語っている。翌月、藩の急進派が兵を率いて京都に攻め上り、御所の近くで会津・薩摩の兵と戦って敗れた(禁門の変)。長州は朝敵とされ、桂は追われる身になった。

禁門の変に関わる図版:Hamaguri rebellion
禁門の変Wikimedia Commons Yūzan Mori · Public domain

京都では芸妓の幾松が匿い、食事を運んだと伝えられる。桂は乞食に姿を変えて鴨川の橋の下に潜んだとも言われ、やがて京都を抜け出して但馬の出石に逃れ、荒物屋の主人として名を変えて暮らした。この間に長州では、幕府に恭順する一派が藩の実権を握り、急進派の重臣たちは切腹させられていた。高杉晋作の挙兵で藩論が討幕へと覆ると、1865年、桂は呼び戻されて藩政の中心に座った。逃げ延びていたことで、藩を代表して外と交渉できる立場が残っていた。この頃、藩命により木戸貫治と名を改めている。

翌1866年1月、京都の薩摩藩邸で、薩摩の西郷隆盛・小松帯刀と長州の木戸が会い、両藩の提携が成った(薩長同盟)。仲を取り持ったのは土佐の坂本龍馬である。木戸は、朝敵とされた長州から助けを乞う形になることを最後まで拒み、薩摩側が切り出すまで口を開かなかったと伝えられる。会談の後、木戸は約束した六か条を書き記して龍馬に送り、間違いがないことを裏書きするよう求めた。龍馬は朱筆で裏書きして返している。口約束を信用しきれない木戸の用心深さと、それでも約束を形に残そうとする慎重さがよく表れている。

薩長同盟に関わる図版:Satsuma-samurai-during-boshin-war-period
薩長同盟Wikimedia Commons Felice Beato · Public domain

維新の後、木戸は新政府の参与として制度づくりを主導した。1868年の五箇条の御誓文は、越前の由利公正の原案に土佐の福岡孝弟が手を入れたものを、木戸がさらに修正して仕上げた。大名の会議を開くという文言を「広く会議を興し」と改めたのは、彼の手による。翌年には、藩主が土地と人民を朝廷に返す版籍奉還を早くから唱え、長州藩主をはじめ薩長土肥の藩主に上表させた。1871年の廃藩置県では、西郷、大久保とともに、藩をまるごと廃して中央が任命する県知事を置く大改革を進めた。これら三人は、のちに維新の三傑と呼ばれる。

1871年末から、木戸は岩倉使節団の副使として欧米を回った。工場や軍備よりも、各国の憲法と議会、学校の制度を熱心に見て回り、国の根本は法と教育にあると考えるようになった。帰国後、政府の指導者の中でいち早く、段階を踏んで憲法を作るべきだという意見書を出している。

岩倉使節団に関わる図版:Iwakura mission
岩倉使節団Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

だが政府の中では次第に孤立していった。留守政府が進めた西郷の朝鮮派遣には、大久保とともに内治を優先せよと反対した。ところが1874年、その大久保が台湾出兵を進めると、外へ兵を出さないと言ったばかりではないかと反対し、参議を辞して郷里へ帰った。翌1875年、大阪で大久保、板垣退助と会談して政府に戻り、元老院・大審院を置いて徐々に立憲の体制へ移るという詔が出された。しかし改革は思うように進まず、木戸は病がちになった。日記には、不満と体の不調を嘆く言葉が多く残る。

1877年、鹿児島で西郷が兵を挙げた(西南戦争)。木戸は京都で病床にあり、天皇の行幸に従っていたが、5月26日に死んだ。満43歳だった。最期の病床で、西郷、もういいかげんにしないか、とうわごとを言ったと伝えられる。その西郷も4か月後に城山で死に、翌年には大久保も暗殺される。維新の三傑は、1年余りのうちに全員がいなくなった。

木戸孝允の肖像(洋装)
木戸孝允の肖像(洋装)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

木戸は、繊細で神経質な人だったと伝えられる。若い頃の剣の腕にもかかわらず、維新の争乱で自ら人を斬ったという話はほとんど残っていない。幾松はのちに正式に妻となり、松子と名のった。木戸が日記を丹念に書き続けたことで、維新政府の内側の動きは彼の目を通して多く伝わっている。逃げることで生き延び、生き延びたことで新しい国の制度を書く側に回った人物だった。

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