大久保利通の暗殺
概要
西南戦争の翌年、不平士族に討たれた。維新の三傑がこの2年で全員いなくなる。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
大久保利通1830年–1878年 · 当人本文
大久保利通は、薩摩藩の下級武士の家に生まれ、幼なじみの西郷隆盛とともに藩の改革派として頭角を現した。幕末には、公家の岩倉具視と組んで王政復古を進め、明治政府ができると、木戸孝允とともにその中心に座った。版籍奉還や廃藩置県を推し進め、岩倉使節団で欧米を回った。帰国すると、朝鮮への使節派遣を唱える西郷と対立し、これを退けた(征韓論政変)。西郷は政府を去り、鹿児島へ帰った。
政府に残った大久保は、新設した内務省の長である内務卿として、事実上の政府の最高実力者になった。警察を整え、地租改正を進め、官営の工場を建てて産業を興すことに力を注いだ。その一方で、士族の反乱には容赦がなかった。明治7年の佐賀の乱では自ら現地に乗り込んで鎮圧し、首謀者の江藤新平を、ほとんど弁明の機会も与えずに梟首の刑に処した。政府の外の人々の目には、大久保は権力を一手に握る冷たい独裁者と映った。

明治10年(1877年)、鹿児島の士族が西郷を担いで兵を挙げた(西南戦争)。大久保は、かつての盟友を相手に、政府軍の総力を挙げて戦った。9月、西郷は鹿児島の城山で死んだ。西郷の死を聞いた大久保は、声を上げて泣いたと伝えられる。同じ年の5月には、木戸孝允が病で世を去っていた。
翌明治11年5月14日の朝、大久保は、東京の霞が関の自宅から、馬車で赤坂の仮の皇居へ向かった。この日の朝、大久保は訪ねてきた福島県令の山吉盛典に、維新から30年を三つに分ける構想を語ったと伝えられる。最初の10年は戦乱の時期で、次の10年は内政を整え産業を興す時期であり、自分はこの10年に全力を尽くしたい。その後の10年は、後に続く者たちに任せる、という内容である。

馬車が紀尾井坂の近く、清水谷にさしかかったところで、刀を持った6人の男が襲いかかった。男たちは馬の脚を斬って馬車を止め、御者の中村太郎を斬り殺し、大久保を馬車から引きずり出して、めった斬りにした。大久保は即死だった。満47歳である。
襲ったのは、石川県の士族・島田一郎ら5人と、島根県の士族1人だった。西郷に心を寄せ、西南戦争に呼応して兵を挙げようとして果たせなかった者たちである。彼らは自首し、懐に「斬奸状」を持っていた。そこには大久保の罪として、国民の公議を抑えて政治を私していること、法令をみだりに出して官僚が私腹を肥やしていること、不急の土木事業で国の財を浪費していること、志のある士を退けて内乱を招いたこと、外国との交渉を誤って国の権威を損ねたこと、などが挙げられていた。6人は、その年のうちに死刑に処された。

大久保の死後、家の財産を調べてみると、手元の現金はわずかで、逆に多額の借金が残っていた。国の予算で足りない公共の事業のために、自分の名義で金を借りて立て替えていたためだとされる。権力を一手に握りながら、私腹は肥やしていなかったことが、その時になって分かった。
木戸が病に倒れ、西郷が戦場に死に、そして大久保が暗殺された。維新の三傑と呼ばれた3人が、わずか1年のうちに全員いなくなったのである。大久保の後を受けて内務卿となったのは、彼より一世代若い伊藤博文だった。伊藤と山県有朋、大隈重信らが、その後の明治政府を担っていく。
大久保の暗殺は、士族が刀で政府を倒そうとした最後の大きな事件の一つになった。武力による反抗の道が閉ざされた後、政府への不満は、言論と結社による自由民権運動へと流れ込んでいく(民撰議院設立建白書)。そして数年後、政府は国会の開設を約束することになる(明治十四年の政変)。

大久保の評価は、長く西郷の陰に隠れてきた。情に厚く人々に愛された西郷に対して、大久保は冷徹な権力者として描かれることが多かった。だが、近代国家の骨組みを作り上げた実務家としての大久保を、改めて評価する見方も広がっている。