鹿鳴館

概要
井上馨が条約改正のために建てた洋館で、外国の外交官を招いて夜会と舞踏会を開いた。日本は文明国だと見せるために。「猿真似」と国内外で笑われ、井上が辞めて4年で終わった。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
幕末に欧米と結んだ条約は、日本にとって不利なものだった。日本にいる外国人が罪を犯しても、日本の法律では裁けず、その国の領事が裁く。輸入品にかける関税を、日本が自分で決めることもできない。この不平等な条約を改めることは、明治の政府にとって最大の外交の課題だった。1871年に欧米を回った岩倉使節団も改正の交渉を試みたが、相手にされなかった。欧米の国々の言い分は、日本の法律と裁判がまだ文明国の水準に達していない、というものだった。
1879年に外務卿となった井上馨は、この壁を越えるために、日本が欧米と同じ文明の国であることを、目に見える形で示そうと考えた。外国の外交官や商人を招き、西洋式の宴会と舞踏会でもてなす。そのための建物として造られたのが、鹿鳴館である。

場所は東京の日比谷、もとは薩摩藩の屋敷のあった土地だった。設計したのは、工部大学校で建築を教えるために招かれていたイギリス人のジョサイア・コンドルで、のちに東京駅を設計する辰野金吾らの師にあたる。煉瓦造りの2階建てで、1階には食堂と談話室、2階には大きな舞踏室があった。名前は、中国の古い詩集『詩経』の一篇から取られた。鹿が鳴いて仲間を呼び、宴に客を迎える、という歌である。
1883年11月28日、鹿鳴館は開館の夜会を開いた。内外の貴顕が招かれ、楽団が西洋の音楽を奏でた。それから数年、ここでは夜会、舞踏会、慈善のバザー、外国人を招いた演奏会が次々に開かれた。政府の高官とその夫人たちは、洋服を仕立て、テーブルマナーを習い、外国人の教師について踊りの稽古をした。女性たちは、腰の後ろを膨らませたドレスを着て、髪を西洋風に結い上げた。皇后がお歯黒をやめてみせてから(お歯黒をやめる)10年あまりで、宮中と上流の女性の装いはここまで変わっていた。

鹿鳴館に象徴されるこの時代は、のちに「鹿鳴館時代」と呼ばれる。洋服や洋食、西洋の建物や風習を急いで取り入れる欧化の気分が、政府の周りを中心に高まった。1887年4月には、首相の伊藤博文が官邸で大がかりな仮装舞踏会を開き、自らヴェネツィアの貴族に扮した。この舞踏会は、高官たちの浮ついた振る舞いの象徴として、のちのちまで語られることになる。
こうした催しは、国の内外で冷ややかに見られた。1885年の天長節の夜会に招かれたフランスの海軍士官で作家のピエール・ロチは、のちにその夜を文章に書いた。きらびやかな会場と熱心に踊る日本人たちを描きつつ、それを猿の物真似のようだと皮肉る調子が混じっていた。フランスの画家ジョルジュ・ビゴーは、洋服を着て気取った日本の紳士と婦人が、鏡に猿の姿で映る風刺画を描いた。国内でも、民権派の新聞は、税金を使った高官たちの遊びだと攻撃した。
ロチの文章は、のちに文学賞(芥川賞と直木賞)に名を残す芥川龍之介の短編『舞踏会』(1920年)の下敷きになった。17歳の令嬢が鹿鳴館の舞踏会で異国の士官と踊り、花火を見上げる一夜を、芥川は淡く美しい場面として描いた。同じ一夜が、見る人によって、猿真似にも、はかない夢にも見えたのである。
肝心の条約改正は、うまくいかなかった。井上は欧米の国々と会議を重ね、1887年に改正の案をまとめたが、その中身は、外国人が関わる裁判には外国人の判事を加え、日本は西洋に倣った法律を定めて相手国に知らせる、というものだった。政府の法律顧問だったフランス人ボアソナードは、これでは日本の主権が損なわれると反対し、閣僚の谷干城も抗議して辞めた。前の年のノルマントン号事件で、沈んだ船の日本人乗客を見捨てたイギリス人の船長が軽い罰で済んだことへの怒りも、まだ冷めていなかった。反対の声は全国に広がり、1887年9月、井上は外務大臣を辞めた。
井上の辞任とともに、鹿鳴館での華やかな夜会も下火になった。建物は1890年に華族の社交の場である華族会館に払い下げられ、その後も使われたが、1940年に取り壊された。いまは、日比谷の帝国ホテルの隣に、跡を示す碑が残るだけである。
条約の改正が実現するのは、鹿鳴館の夜会が終わってから7年後、外務大臣陸奥宗光がイギリスと結んだ1894年の条約による(条約改正(日英通商航海条約))。それを可能にしたのは、舞踏会ではなく、憲法と議会と法典を整えた国づくりの積み重ねだった。鹿鳴館は、文明を形から示そうとして笑われ、それでも西洋の国々と同じ席に着こうとした、明治の日本の焦りと努力を、一つの建物で表している。