岩倉具視
概要
公家から討幕を画策し、王政復古の大号令を実現させた。
関わったできごと(2)
王政復古の大号令1868年1月3日(慶応3年12月9日) · 主導岩倉使節団1871年 · 全権大使本文
岩倉具視は1825年、京都で公家の堀河康親の次男として生まれ、同じ公家の岩倉家に養子に入った。岩倉家は家禄150石ほどの下級の家で、朝廷の会議で意見が通るような家柄ではなかった。若い頃から和歌や作法より政治に関心が向き、関白鷹司政通の歌の門に入ったのを足がかりに、朝廷の中枢に近づいていった。1854年、孝明天皇の侍従になる。

名が知られたのは1858年である。幕府が日米修好通商条約の勅許を求めると、朝廷の上層部は受け入れに傾いた。岩倉は中下級の公家たちを説いて回り、88人をそろって参内させて反対を申し入れた。廷臣八十八卿列参事件と呼ばれる。家格の低い公家が数を頼んで朝議を動かした、異例の出来事だった。勅許は下りず、幕府は勅許なしで調印することになる。
ところが岩倉は、幕府を倒せと唱えたわけではなかった。外国に対抗するには朝廷と幕府が手を結ぶほかないと考え、孝明天皇の妹を将軍徳川家茂に嫁がせる和宮降嫁を進めた。幕府に攘夷の約束をさせることを条件にした縁組で、1862年、和宮は江戸へ下った。しかし京都で勢いを増していた尊王攘夷派から見れば、岩倉は皇女を幕府に差し出した裏切り者だった。同じ1862年、攘夷派の圧力で官を辞して出家し、洛北の岩倉村に移り住んだ。命を狙う脅しも受け、ここから5年に及ぶ蟄居が続く。

この蟄居の間に、岩倉の考えは変わっていった。粗末な家に、薩摩の大久保利通や小松帯刀らが人目を忍んで出入りし、意見書を交わした。幕府に時代の舵取りを任せていては国が持たない、朝廷が政治の中心に立つべきだという方向へ、岩倉は踏み出した。1866年末に孝明天皇が急死すると、岩倉が毒を盛らせたという噂が後に立ったが、裏づけは無く、病死とする見方が有力である。翌1867年、若い明治天皇の代になって岩倉は赦され、朝廷に戻った。
1867年10月、将軍徳川慶喜は大政奉還で政権を朝廷に返した。だが慶喜は、新しい体制でも最大の大名として実権を握り続けるつもりだった。岩倉は大久保利通や西郷隆盛と組んでそれを封じにかかる。12月9日、薩摩などの兵が御所の門を固めるなかで王政復古の大号令が出され、幕府も摂政・関白も廃された。同じ夜の小御所会議で、土佐の山内容堂が、幼い天子を担いで権力を盗もうとしていると非難すると、岩倉は天皇の前で無礼であると一喝したと伝えられる。会議は、慶喜に官位と領地の返上を求めること(辞官納地)で押し切られた。これが旧幕府側を戦いへ追い込み、翌月の鳥羽・伏見の戦いにつながっていく。

新政府では公家出身の実力者として、三条実美と並んで頂点に立った。1871年に右大臣となり、その年の暮れ、不平等条約の改正の下交渉と欧米の制度の視察を兼ねて、特命全権大使として岩倉使節団を率いた。木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを含む百人余りの一行で、アメリカからヨーロッパを回って1年10か月に及んだ。条約改正の交渉はアメリカで早々に行き詰まったが、工場や議会、学校を見て回った経験は、一行のその後の政治を大きく変えた。出発のとき岩倉は髷を結い和服を着ていたが、シカゴでアメリカに留学していた息子に説得されて髷を切り、洋装に改めたと伝えられる。
帰国すると、留守の政府は西郷隆盛を朝鮮へ使節として送る方向で固まっていた。岩倉は大久保とともに、国内を整えるのが先だとして反対した。三条が心労で倒れると、太政大臣の代理として天皇に派遣の延期を奏上し、決定をひっくり返した。西郷、板垣退助らは政府を去った(征韓論政変)。翌1874年1月、赤坂喰違坂で、征韓派に同調する高知の士族らに馬車を襲われ、堀に転げ落ちて傷を負いながら命を拾っている。
その後は政府の重しとして、華族の取りまとめと皇室の制度づくりに力を注いだ。華族の資産を集めて第十五国立銀行や日本鉄道会社を作らせ、没落しかけた公家や旧大名の家を支えた。議会の開設が避けられなくなると、1881年、憲法は天皇が定めて国民に与える形にし、議会の力を限る、という大綱を示した。その方針を受けて伊藤博文がヨーロッパへ憲法の調査に出かけたが、大日本帝国憲法の発布の発布を見ることなく、1883年7月20日、胃癌で死んだ。満57歳。伊藤の帰国を待ちわびていたという。

葬儀は、明治政府で初めての国葬として営まれた。戦後の1951年から発行された500円札に肖像が使われ、長く人々の財布の中にあった。下級公家の身から、策をめぐらして朝廷を動かし、幕府を終わらせた。その手法は、生前から策士、陰謀家と評されることも多い。だが、朝廷が自分から政治の場に出ていくという、それまで誰も現実の手順に移せなかったことを形にしたのは、この人だった。