民撰議院設立建白書

概要
藩閥の専制を批判し、議会の開設を求めた。自由民権運動の始まり。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
板垣退助1837年–1919年 · 提出本文
明治6年(1873年)の征韓論政変で、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の5人の参議が政府を去った。残ったのは、岩倉使節団から帰った岩倉具視と大久保利通らである。政府の中心は、ほぼ薩摩と長州の出身者で占められるようになった。
翌明治7年1月、板垣らは東京で愛国公党を結成し、その数日後の1月17日、政府の左院に「民撰議院設立建白書」を提出した。署名したのは板垣・後藤・江藤・副島に、元越前藩士の由利公正、小室信夫、古沢滋、岡本健三郎を加えた8人である。文案は、イギリス帰りの古沢が中心になってまとめたとされる。

建白書の論旨はこうである。いま政権がどこにあるかを見ると、上は天皇にも、下は人民にもなく、ただ一部の役人(有司)が握っている。政令は朝に出て夕べに改められ、賞罰は情実で決まり、言論の道はふさがれている。これを救うには、天下の公議を広げるしかなく、それには民撰議院を立てるほかない。税を納める者は、その使い道を知り、口を出す権利がある、とも述べている。
「民撰」とは、人民が選ぶという意味である。当時すでに政府の中には左院という立法の諮問機関があったが、その議官は政府が任命していた。建白書は、それとは違う、選挙で選ばれた者による議院を求めたのである。ただし、建白書が考えていた選挙権者は、全ての人民ではなく、士族と豪農・豪商といった、知識と財産のある層だった。
建白書は、提出の翌日、イギリス人ブラックが発行していた日本語の新聞『日新真事誌』に全文が載った。政府への意見書が、そのまま新聞を通じて世間の目にさらされたことになる。各地の新聞がこれを取り上げ、議会を開くべきか、まだ早いかをめぐって紙上で論争が起きた。
政府側の学者・加藤弘之は、人民の知識がまだ十分に開けていない今、議院を開くのは時期尚早だと反論した。これに対し、建白書の側は、議院を開くことこそが人民を開く道だと応じた。政治の議論が、限られた人の密談ではなく、新聞を読む人々の前で戦わされたのは、日本ではこれがほぼ初めてだった。
ただし、署名者たちの歩みは一様ではなかった。江藤は建白の直後に郷里の佐賀へ帰り、不平士族に担がれて翌月に佐賀の乱を起こした。敗れて捕らえられ、梟首の刑に処されている。板垣は高知に戻って立志社を作り、土佐を拠点に運動を進めた。
政府もまったく応じなかったわけではない。明治8年、大久保は板垣と木戸孝允を大阪に招いて会談し、両人を政府に戻すかわりに、元老院・大審院・地方官会議を置き、漸次に立憲政体を立てるという詔を出した。ただしこの譲歩は長続きせず、板垣はまもなく再び政府を去った。
運動が本当に広がるのは、西南戦争(西南戦争)で武力による反政府の道が閉ざされた後である。担い手は士族から、地租を納める豪農や地方の商人へ広がり、各地に結社ができ、国会の開設を求める請願が政府に殺到した。明治14年、政府は明治十四年の政変の中で、10年後の国会開設を約束する詔を出す。建白書からは7年後のことだった。
明治13年には、各地の結社の代表が大阪に集まって国会期成同盟を結成し、数万人分の署名を添えた請願書を政府に出そうとした。政府は受け取りを拒み、集会条例を定めて政治の集会を取り締まった。国会開設の詔の後、板垣は自由党を、大隈重信は立憲改進党を作り、来たるべき議会に備えて政党の時代が始まる。
建白書を書いた人々の多くは、政府の中枢から外された元参議だった。権力争いに敗れた側が、議会という新しい理屈を武器にしたとも言える。それでも、政府は一部の者のものではなく、税を納める人々の意見を聞くべきだという主張は、ここで初めて公の文書となり、第一回帝国議会へとつながっていった。