人物

山県有朋

Yamagata Aritomo
1838年 – 1922年(享年84・推定)
日本重要度 4

概要

徴兵令を敷いて国民皆兵の軍を作った。軍と官僚に長く影響力を保つ。

所属

日本

関わったできごと(2)

徴兵令1873年 · 主導西南戦争1877年 · 政府軍

本文

山県有朋は1838年、長州藩の城下町萩に生まれた。家は藩の蔵の仕事に就く中間で、足軽よりさらに下の身分だった。槍の稽古に打ち込んで、槍一本で身を立てようと考えていたという。若い頃は小輔、のちに狂介と名のった。1858年、藩の命で京都へ情勢を探りに行ったのをきっかけに尊王攘夷の運動に加わり、吉田松陰の松下村塾に出入りした。松陰のもとにいた期間は短いが、本人は生涯、門下生であることを誇りにした。

転機は高杉晋作が作った奇兵隊だった。武士以外からも志願者を集めたこの部隊で、山県は軍監として実際の指揮を担った。1864年の四国艦隊下関砲撃事件では、外国艦隊の砲撃の前に砲台を守り切れず、西洋式の軍備がなければ戦えないことを身をもって知った。1866年の第二次長州征討と戊辰戦争では奇兵隊を率いて戦い、越後から会津方面まで転戦している。身分の低い者でも鍛えれば戦えるということを、彼は戦場で見ていた。

四国艦隊下関砲撃事件に関わる図版:Choshu-Battery-Capture-Shimonoseki-1864
四国艦隊下関砲撃事件Wikimedia Commons Felice Beato · Public domain

維新の後、1869年から翌年にかけてヨーロッパを回り、フランスやプロイセンの軍制を調べた。帰国して兵部省に入り、兵制を整える中心に立った。1873年の徴兵令は、20歳の男子から兵を取り、武士でない者も含めて国民全体で軍を作る仕組みである。士族の特権を奪うものとして反発は大きく、農村では徴兵に反対する一揆も起きた。その直前には、陸軍の御用商人山城屋和助が軍の公金を使い込んで自殺する事件が起き、山県も責任を問われて一時、職を退いている。

徴兵の軍が試されたのは、1877年の西南戦争だった。山県は政府軍の事実上の指揮を執り、農民出身の兵が、士族の中でも精強で知られた薩摩軍を破った。城山に籠もった西郷隆盛に、山県は自決を勧める手紙を送っている。翌1878年、参謀本部を陸軍省から切り離して独立させ、作戦と用兵を内閣の外に置いた。1882年には天皇が軍人に下す形で軍人勅諭を出し、軍人は世論に惑わされず政治に関わらず、ひたすら天皇に忠節を尽くせと説いた。軍を自由民権運動の影響から切り離すことが狙いだった。

1883年から内務卿・内務大臣として、警察と地方制度を作った。市制・町村制と府県制・郡制で、村の有力者が地方行政を担い、その上に国が任命する知事が立つ仕組みが整えられた。1889年に首相となり、翌年の第一回帝国議会で、国境という主権線だけでなく、その安全に関わる利益線を守らなければならないと演説した。利益線とは朝鮮のことだった。1894年の日清戦争では自ら第一軍司令官として朝鮮から満洲へ進んだが、病のため途中で呼び戻されている。

日清戦争に関わる図版:旅顺海军公所
日清戦争Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1898年からの第二次内閣で、山県は政党の力が官僚と軍に及ばないための手を次々に打った。文官任用令を改めて、政党員が試験を経ずに高級官僚になる道を狭めた。治安警察法で労働運動や政治結社を取り締まった。そして1900年、陸軍大臣と海軍大臣を現役の大将・中将に限る制度を定めた。軍の同意が得られなければ大臣を出せず、内閣が組めない。この規定は1913年にいったん緩められたが、1936年に復活し、軍が内閣の存否を左右する道具になっていく。政党を抑えるために作った仕組みが、のちに政党でも元老でも止められない軍を生むことになった。

20世紀に入ると、首相の座を後輩の桂太郎らに譲り、元老として後継首相の推薦や重要な国策に関わった。日露戦争では参謀総長を務めた。陸軍と内務省、宮内省、枢密院に自分の系統の人々を配し、その網は山県閥と呼ばれた。社会主義を強く警戒し、1910年から翌年の大逆事件では、政府の厳しい処置の背後にいたとされる。同じ長州出身の伊藤博文が政党を作って議会と折り合おうとしたのに対し、山県は最後まで政党を信用しなかった。

日露戦争に関わる図版:RUSSOJAPANESEWARIMAGE
日露戦争Wikimedia Commons Original uploader and author was Dustandshadow at en.wikipedia · Public domain

ただ、時代の流れには逆らいきれなかった。1918年、米騒動の後に山県は政党総裁の原敬の政党内閣を認めた。原敬とは対立しながらも、互いの実力を認め合う関係だったといわれる。晩年の1921年、皇太子の妃の家系に色覚の遺伝があるとして婚約の取り消しを求めたが、世論の反発を受けて退けられ、威信を大きく落とした。宮中某重大事件と呼ばれる。

私生活では庭造りを好み、京都の無鄰菴、東京目白の椿山荘、小田原の古稀庵などに自ら手を入れた庭を残した。和歌もよく詠んだ。用心深く、人前で多くを語らず、自分の系統の人間には細かく気を配る人だったと伝えられる。

山県有朋の肖像
山県有朋の肖像Wikimedia Commons Unknown photographer · Public domain

1922年2月1日、小田原の古稀庵で死んだ。83歳。国葬が営まれたが、3週間ほど前に死んだ大隈重信の葬儀に数十万の市民が集まったのに比べて、参列者は少なく、新聞は寂しさを書き立てた。近代日本の陸軍と官僚制と地方制度の骨格を作った人物として、その影響はほかの元老の誰よりも長く残った。その仕組みが昭和の日本で何をもたらしたかは、いまも評価が分かれる。

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