岩倉使節団

概要
政府の首脳50人が1年10か月かけて欧米12か国を回った。条約改正は果たせなかったが、何を作るべきかを見た。
関わった人(4)
岩倉具視1825年–1883年 · 全権大使大久保利通1830年–1878年 · 副使木戸孝允1833年–1877年 · 副使伊藤博文1841年–1909年 · 副使本文
1871年の夏、明治政府は廃藩置県を断行し、全国の藩を廃して県を置いた。武士の領主が治める国から、中央の政府が治める国へ。その大仕事を終えたばかりの政府が、次に取りかかったのが、幕末に結ばされた条約の改正だった。外国人を日本の法で裁けない領事裁判権、関税を自分で決められない協定関税。改正の交渉を申し入れられる期限が、翌1872年に来ることになっていた。
その年の暮れ、陰暦で明治4年11月12日、横浜港から一隻の蒸気船が出た。全権大使は右大臣の岩倉具視、副使は参議の木戸孝允、大蔵卿の大久保利通、工部大輔の伊藤博文、外務少輔の山口尚芳。政府の首脳が揃って国を離れた。書記官や随員に留学生を加えて100人を超え、留学生の中には、6歳の津田梅子をはじめとする5人の少女もいた。

国に残ったのは、太政大臣三条実美のもとで西郷隆盛、大隈重信、板垣退助らが率いる、いわゆる留守政府である。出発に先立って、使節団と留守政府は、使節が戻るまで大きな改革や人事は行わないと約束を交わしていた。政権の中枢が1年10か月も不在になるのは、どの国でも異例のことになる。
最初の訪問国はアメリカだった。サンフランシスコでは盛大な歓迎を受け、伊藤博文は英語で演説して、日本の国旗の赤い丸はやがて昇る朝日として文明の国々の中に加わるだろうと述べた。歓迎ぶりに手応えを得た使節団は、ワシントンで条約改正の本交渉に入ろうとした。ところが、交渉して調印するには天皇の正式な委任状が要ると指摘され、大久保と伊藤が取りに日本へ引き返した。往復で4か月近くかかった。その間に交渉は行き詰まり、アメリカ側の要求の大きさも見えてきた。一国と先に改正すれば、ほかの国にも同じ条件を与えることになるという難しさもあった。

ワシントンでは大統領グラントに謁見し、議会や官庁を見て回った。南北戦争が終わって数年、大陸横断鉄道が開通したばかりのアメリカは、広い国土を鉄道と電信で結び、移民を吸い込みながら膨らんでいく国だった。共和政の国で、人々が選挙で代表を選ぶ仕組みを、使節団は驚きをもって記録している。
目的は条約改正の予備交渉だったが、法律も裁判も整っていない国が対等な扱いを求めても通らない、と思い知らされた。以後は視察に切り替えた。

使節団はそれから、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスと、アメリカを含めて12か国を回った。見たのは、工場、造船所、議会、裁判所、学校、病院、監獄、鉄道、博物館。イギリスでは4か月かけて各地の工業都市を回り、マンチェスターの綿工場やリヴァプールの港、グラスゴーの造船所を見学した。煙突が林立する町を前に、この国の富は石炭と鉄から来ていると知った。
1873年3月、ベルリンで使節団はドイツ帝国の宰相ビスマルクに招かれた。ビスマルクは、自分も小国プロイセンの出であり、国際法は大国が都合のよいときだけ守るもので、小国が頼れるのは自分の力だけだ、という趣旨の話をしたと記録されている。統一したばかりの後発国ドイツの姿は、とりわけ大久保に強い印象を残したとされる。
使節団の見聞は、書記官の久米邦武が丹念に記録し、帰国後に『特命全権大使米欧回覧実記』として刊行された。100巻に及ぶこの記録には、工場の機械の仕組みから、街の衛生、宗教の役割、人々の暮らしぶりまでが細かく書き込まれている。欧米の豊かさが、実はこの数十年で急に築かれたものだという観察もそこにある。追いつけない差ではない、と彼らは見た。
帰路はスエズ運河を通り、セイロン、シンガポール、香港、上海に寄った。ヨーロッパの植民地となったアジアの港の姿は、行きにアメリカで見た景色とは別の教訓を与えた。大久保は1873年5月、木戸は7月に先に帰り、岩倉が横浜に戻ったのは9月だった。

その間に、留守政府は約束を破って大きく動いていた。1872年に学制を公布し(学制の公布)、太陽暦を採用し、1873年には徴兵令と地租改正を進めた。どれも近代国家の土台になる改革だったが、帰国組から見れば、相談なしに国の形を変えられたことになる。
最大の衝突は朝鮮をめぐって起きた。国交を拒む朝鮮に西郷隆盛を使節として送る、という留守政府の決定に、帰国した岩倉と大久保は強く反対した。まず国内を固めるべきだ、というのが欧米を見てきた者たちの言い分だった。1873年10月、決定は覆され、西郷、板垣、江藤新平らが一斉に政府を去った(征韓論政変)。去った者の中から、のちに士族の反乱と、議会の開設を求める運動が生まれる。

使節団は条約改正を果たせなかった。改正の完全な実現は、それから40年近くあとの1911年になる。だが、何を作るべきかを見た。帰国後に大久保が内務省を作って産業を興し、伊藤がのちにドイツの憲法を手本に国の仕組みを組み立てたのは、この旅の延長にある。海を渡った少女たちのうち、津田梅子はアメリカで11年学んで帰国し、のちに女子の高等教育の学校を開いた。